アルジェリアの事件について

アルジェリアの事件に関しては、一言だけ言っておきたい。
それは、今回の出来事と日本政府の対応が、福島原発の事故に関するものと同じに見えるということだ。


福島の原発事故は、現在も実際には収束の目処がまったくたたない中、危険な被曝労働がいつ果てるともなく続けられている。周辺住民の人たちも、健康で安心の出来る生活を断念するのでなければ、いつ元の土地での暮らしに戻れるか分からない状態である。
被曝の被害と危険は、増大しながら続いているのであり、実際には日本中の人たちが、日々その脅威にさらされて生きているのだ。
それなのに、今の自民党政権は福島の事故を無かったことのようにして、原発政策を推進し続けようとしている。多くの有権者も、それを支持している(投票の棄権という仕方も含めて)のが実情だ。
それは、国も資本(電力会社や財界)も、「国際社会」(核の体制を維持したい人たち)とやらも、これまで得てきた権益を手放そうとしないからだ。またわれわれ自身も、消費文明への同一化という形でその権益に奉仕している、自分たちの生活の仕方を手放したくないと思っているからだ。その「生活の仕方」のおかげで、際限のない競争と不安の中に死ぬまで投げ込まれ続けるというのに、それでもそこにしがみついて生きることが最善であり、それ以外の選択など考えられないと感じている。
われわれにそう思わせることで、そしてそう思わせることによってのみ、国や資本や「国際社会」は、権益を維持し続けている。だから彼らは、事故の被害と継続する被曝の危険の主たる責任が自分達にあることを、決して認めない。われわれをこれまでの「生活の仕方」の中に強固に、また巧妙に縛り付けることによって、これまでの道を変わらず進み続けようとする自分達の政策を支えさせ、どこまでも資本の権益をむさぼり続けようとするのだ。それが、今の国際経済という実体の姿でもあるのだろう。
そのために、彼らは福島原発で事故の処理のために被曝労働にあたる人たちを、英雄のように顕彰しようとした。自分たちの権益追及のための犠牲者を、「英雄」へと変換して扱うことによって自分らの加害の事実を隠し、同時に権益確保(原発推進の継続)のために政治利用したのである。
またそうすることで、これはあの大震災の被害を受け、あるいは救助・救援に尽力した人たち全てに関して言えることでもあるが、原発による広汎な被害や、(大災害によって露呈し拡大した)社会全体の格差と差別の現実を生み出し続けることによって維持されるような社会と国のあり方、体制、それを再強化するために、この人々の生と死を利用したのである。それは一口に言えば、「絆」というような言葉による、社会のファッショ的な統合、という仕方によってだ。
震災と事故の前から既に明らかになりつつあったこの国の体制(金儲けの為の仕組みということだが)の綻びを、ファッショ的な統合によって糊塗し、無理やりに継続させていくために、自分たちの強欲で恥知らずな政策と経営との犠牲者たちの生と死を、彼らは利用しているのである。
そして、それに協力するために、われわれにも同様に恥知らずに生きることを、恐喝と懐柔のあの手この手のやり口によって強いているのだ。


基本的には、この同じ構造が、アルジェリアの事件についても、ただここではより鮮明に国際的な構造に関わる形で、現れていると思う。
日本を含む各国の、とりわけ欧米の政府や大企業の、植民地主義と資本の収奪の暴力とがなければ、このような犠牲は生じなかったはずだ。このような犠牲というのは、アルジェリアに関しては、内戦による20万の死者と、独立戦争に関わる200万と言われる死者、そして数字にはっきりあらわされることのない飢餓や貧困や戦争によるアフリカの多くの人たちの死を含んでいる。
今回の事件の全ての死者に関して、このことは当てはまるだろう。人質にされた挙句に殺された人たちはもちろん、「強行突入」を命じられた現地の警官や兵士、また「武装勢力」という道を選んだ人たちも、この大きな暴力の構造がなければ、このような形で命を失うことはなかったはずだ。
「日本人」の死者に限定して述べても、今回亡くなった人たちは、経済の拡大だけを追及する日本の政治家や資本家や株主達の強欲さの犠牲であるというのが、最も真実に近い側面なのだ。
「経済の拡大がなければ、もっと多くの貧困や飢餓が起きるだろう」という人があるかも知れないが、それは自分たちが同一化している資本の強欲さを正当化したいための詭弁にすぎない。現実に働いているのは、植民地主義と資本の暴力なのだ。「この現実がなかったら」という仮想ではなく、この現実の暴力をどう抑え込んで行くかだけが重要なのだ。


ところが、いま日本の政府が行おうとしていることは、またしても、亡くなった人々の生と死を「日本人の」「企業戦士の」というように、国家や資本の論理によって我有化し、資本の収奪の継続と悪しき統合のための政治利用の道具にしようということである。
僕たちは、この人たちの死を、国家や資本の論理によって語られるものではなく、国籍とも企業の仕組みとも、また「テロとの戦い」というような国際社会のロジックとも無縁な、一人一人の生命の死として感受し、悼むのでなければならない。
それは、国や企業やマスコミが命じるままに、消費者として、国民としての「生活の仕方」にしがみつき続けている僕ら自身の犠牲となって、この人たちのかけがえのない生命が奪われたこと、そしてその背後に、同じくかけがえのない、アフリカや世界中の、「武装勢力」と名指されるような人たちをも含めた、僕たちが加担している暴力の犠牲者たちの生と死とを、感受するということでもある。