『思想のドラマトゥルギー』

思想のドラマトゥルギー (平凡社ライブラリー)

思想のドラマトゥルギー (平凡社ライブラリー)


この長大な対談の根っこになっているのは、冒頭近くに林達夫が語っている、子ども時代の次のようなエピソードだと思う。

  実は、それには一つのエピソードがあるんです・・・・いま、初めて人に披露するんだが・・・・叔父の家の隣りに貧しい車引きが住んでいてね。そこの一人娘で二級ぐらい上だったかな、実に凛々しい、威厳のある子がいました。苦しい家計のためでしょうか、真冬に足袋もはけない始末で、いつも素足なんだ。叔母は気の毒がっていたが、彼女は少しも悪びれた様子もなく、当り前のことのように甲斐甲斐しく働いている。僕はそれに感動していたんだろうな。ある日、ふと、”僕もう足袋なんかはかん”と宣言して、あてがわれた足袋を冬中絶対にはこうとせず、周囲を呆れ返させたことがある。付属小学校へ足袋なしで登校するごく少数者中の、僕もその一人だったわけで、意気揚々とそれを実行していた次第です。あるとき朝礼で、校長はこれらの連中を「強い子」として讃めたが、それが劣等感をもたせまいとする、彼の思いやりの言葉であると気がついたのは、ずっと後のことです。とにかく、雪の深い国で、時には六尺も積る、その中に踏み固められた冷たい道を、学校はつい通りを隔てて真向いとは言い条、それでも歩くのはさすがにつらい時もありました。しかし、その仰ぎみる子供とのひそかな連帯感があって、たいして苦にならなかった。無論、その子とは朝夕の挨拶などのほかは、一度も口を利いたこともなかった、いや近寄れなかったが・・・。これ、変なストイックと言っていいのか、裏返しのエピキュリアンとでも言ったらいいものか、それからの僕に一生付き纏う、大げさに言えば生活姿勢の芽の出始めだったんだろうな。
 話は突飛に飛躍するようだが、僕はずっと後になって、聖フランチェスコ伝を読んで、いっぺんに彼が好きになり、彼に倣って出家する「姉御」のような「妹」聖女キアラももちろん同時に好きになり、『小さき花』が何よりの愛読書の一つになりますが・・・。この『小さき花』こそあの『キリストに倣いて』、例の有名なその本の名よりもずっと本物の「キリストに倣いて」、いや、「イエスに倣いて」だと思うが、ああいう世界にすっと入って行けたのも、これだなと思った。これと同じ質(たち)の「連帯感」がなくては、「難行苦行」なんていうものは、少なくとも僕にとってはあり得ない、いや、認められないですね。(p23〜24)


聖フランチェスコについての話は、対談の後の方でさらに展開されることになる。
林は、関東大震災で被災したとき、好意で提供された「小さな炭置小屋」で避難生活を送りながら、わずかに手元に残った聖フランチェスコの本を読んで、その「清貧(無所有)と平等」を追求した生涯と言葉に深い感銘を受けるのだ。


このフランチェスコが導いた宗教運動の歴史的意義に関しては、久野が、ホルクハイマーの次のような説の紹介を行っている。

久野  彼、フランチェスコは、狂暴になりかねない大衆の解放を求める潮流を両岸のある河床に導き、この潮流を時期尚早の分解から守り、彼らの力を結集し、統一的目標に向ける功績を果たしたというのです。(中略)フランチェスコの時代では、人間の社会的関心のこの内面化は、世界を支配する教会権力に対抗する、第三階級の自己主張とその未成熟の表現であったのだが、以後の数世紀における第三階級と無産階級との対立の発展は、この内面化の運動を逆に第三階級が無産大衆を操作するための実践に変えてしまった。ホルクハイマーはこのように言っていますがね。(p198)


流石というしかないホルクハイマーの分析であり、また久野の注釈だと思う。


近代主義的な「解放」や「抵抗」の言葉によっては掬い取ることの出来ない、民衆の深い心の底に眼差しを向け、それに働きかけて包み込もうとしたフランチェスコの「連帯」の思想のあり方への、林の気質的とも呼べそうな共感がよく示されているのは、さらに後段の、スペインのカトリック社会の「後進性」と、そこに根ざした土着的・「微温的」な「レジスタンス文学」の伝統について語った箇所だろう。
その最後には、こう語られている。

  だから「人民戦線」や「スペイン戦争」の研究や調査に難癖をつけるわけではないが、僕自身のスペイン研究はまだそんなところへはとても辿りつけず、こんな世界をあちこちうろつき廻っている始末なんです。(中略)そんなわけで、作品もろくに読まず、作家活動もその辺のお手軽な解説本に書いてあることで済ませて、「ファシズムの犠牲者」の何のと大声で言うような芸当は、僕にはとうていできません。(p313〜314)


社会の後進性や、民衆の土着的な情念のようなものと、ファシズムとの関係を見すえる、林のそうした視線は、当然ながら、この日本の社会における「抵抗」の課題と重なるものでもあったはずだ。
対談のなかで、そのことへの注意を促しているのは、むしろ久野の方である。
久野は、左翼からファシズムへの転向ということは多くあっても、逆にファシズム経験をくぐって左翼にやってくる人間の少ないことが、日本の運動にとって大きなマイナスになっているのではないか、ということを指摘する。

久野  林房雄みたいにコミュニズムからファシズムへ転向した人々は多すぎるほどいるんだが。ファシズムが青年をとらえている状況があり、青年には少なくとも正義とか真理への愛情があるわけだから、その心情をファシズムでいいように操作された体験の中から左翼へ出てくる人物がいなければいかん。それがないのは、ある意味で、日本のファシズムの矮小性を示すと同時に、日本の左翼インテリの教条性をも示していると思うのです。(p269〜270)


ファシズムに回収されかねない民衆の心情を、左翼的なロゴスによってではなく、その「想像力」への働きかけによって包み込むことが重要だとする林や久野が、ここで提示する武器は、「レトリック」というものである。
この本の最後の方では、この主題が前面に出て語られる。
たとえば、

  はじめデカルト主義に立脚してレトリックを排し「証明」だけでいいとしたアルノーたちも、結局、説得が手ごたえあるには理性だけでは駄目で、想像力へのアピールが必要だ、と変わってきていますね。聴かせる相手audienceの問題が大きくものをいうのが分って、この「妥協」になったんだ。(p423)


この対談では、ロゴス・理性・明晰さといったものが、教条性(硬直性・抑圧性)に結びつきうるものとして、その負の側面が強調され、それらに回収されない「アンビギュイテ」(曖昧さ)や「繊細さ」を保持しながら人々(聴き手)の「想像力」に働きかける方法としてのレトリックの重要性が強調されている。
あくまで便宜的にであろうが、「明晰さ」と「繊細さ」は、ここでは対立関係に置かれているのだ。
こうした方法や態度というものが、林達夫の戦前からの思想家としての営み、とりわけ、ときに教条主義的な態度を示す活動家・思想家たちとの、左翼内部における葛藤と対立と深く結びついていることは、この対談を読むとよく分る。
明瞭に伝わってくるのは、そうした林の一貫した姿勢であり、それを継承しようとする久野の意志である。




だがそうした姿勢は、聖フランチェスコに私淑する林の、彼なりの「連帯」の精神の現われであったはずだ。
だから、そのレトリックの意図するところが、自分の同志であるはずの人たちに理解されず、孤立する形になると、表現者である林の心情は、孤独の中で深い屈折を帯びかねないことになる。
日本の、特に戦後の左翼の歴史について考えるとき、次の述懐の余韻は深い。

  そういう何か呼びかけても応答がないという、それはやっぱり僕がますますものを書かなくなった理由の一つだろうな。「共産主義的人間」を書いたころから、何か沈黙の壁ができちゃって・・・それはしばらくの間非常に感じていたな。一番同感してくれると思った人々、欲しかった人々、それらがみんな知らん顔している。そこで、こっちだって只の人間だから、つい、なんだい、勝手にしやがれ、というような気になるわけだな。竹内好の気持ちはよく分るな。あれだけ彼、懸命にいろいろな大事なことを言っててね、応答なし。それに今頃になってなんだ・・・・(p247〜248)


発表当時は「反動」のように見なされて黙殺された文章「共産主義的人間」であったが、数年後、フルシチョフによるスターリン批判が行われると、周囲の態度は一変し、手のひらを返したようにチヤホヤされるようになる。そうした薄っぺらさも、林の孤独を一層深めてゆく。
こうした孤独を感じたからといって、無論林は、転向も変質も離脱もしなかっただろう。
そしてこの孤独は、誰かの転向のようなことを正当化するものでもないだろう。
ここからわれわれが読みとるべきものは、それとは別にある。
ここで、レトリックについて、林が学生時代の体験を回顧しながら語っていることに耳を傾けてみよう。

  つまり、僕は、デビューで大きく挫折した、しかも即席少年弁論家から出発して、まあどうやら人前で人にアピールする術を身につけ、やがて高等学校では、もう弁論部的なものなんか洗い落として、一人前のもの書きになろうとし始めていたこと、その二つのことに目をとめて欲しかったんです。口下手で、書き下手な子供が、何とか刻苦精励してまず弁論の世界で自らを試し、ついで文章の世界で自らを鍛えようとしたという、この順序と、拙いがゆえに上手にならねば、という痛切な表現努力のようなものが、そこにいつもあったということ、これは言い換えると、今君が指摘したように、僕は思想的表現の問題で、そもそもの出発点からそうとは知らずに、レトリックの問題に取り組んでいた人間であったと言えないでしょうか?(p411〜412)


ここから分ることは、林にとってレトリックは、選択可能な「多様な表現態度」の一つなどではなく、自分として生きるために用いざるをえなかったぎりぎりの手段だった、ということである。
レトリックが、そのようなぎりぎりの声、呼びかけとして、聞きとられないような社会の構造が、林のような精神を孤立させ、「連帯」の可能性をしぼませてしまうと同時に、当人の生の力を奪ってしまう。
しかしそれは、「連帯」による抵抗の道を探っている者同士の問題であるよりも、まず社会構造全体の問題であるはずなのだ。
つまり、レトリックが生を得ることの出来るような、繊細な社会性、他者の心の繊細なあり方への配慮を怠らない社会を作っていくことは、専らその社会の多数者であるわれわれ大衆(audience)の側の責任である。
林の言葉が、「連帯」のための言葉としては聞きとられず、たんに大衆社会の肯定や、反動的な言説のように受け取られて、あるいは排斥され、あるいは利用されたとすれば、そのことは、この社会が持つ、他者との連帯を困難にする性質の強力さを示している。
それは、林のような精神を持つ人を、孤立させることによって、挫折させたり、時には変質させてしまったりする。
変質は個人の問題であろうが、根本的には、そこに表現者を導いてしまうような社会の仕組みこそが問われねばならないのだ。


その仕組みとはたとえば、教条的なものと、屈折していても繊細な表現(の自由)との対立という装置によって、レトリック(表現者)から「連帯」という内実を抜き去ってしまおうとすることである。
そこでは、「内面性」(繊細さ)と「教条性」(理念)とが、無縁なもの同士のように対置される。
だが実際には、理念という外的なものとの関わりを切断されて、「内面」が独立した価値のように見なされるとき、それは「内面」という別種の教条性(イデオロギー)と化するだろう。
そしてその位置から、「自由」や「大衆」という漠然としたものを拠り所として、表現者の精神は、「教条的」と見なされる同志たちを排撃するようになる。
そこでは、表現者はもはや、「連帯」への意志という自らの本質を見失って、大衆(多数者)社会との同化という名の「孤立」のなかに閉ざされていくしかない。
それが恐らく、ホルクハイマーの指摘した事態である。


だがレトリックは本来、教条的と見なされる者たちに対しての、他者からの「連帯」の呼びかけなのであり、それが真に撃とうとしているものは、同志を教条性へと追いやる、もっと根本的な構造であるはずだ。
その根本的な構造を担っているのは、今日では、大衆であるぼくたち自身なのである。


問われるべきなのは、レトリックの底にある心情を決して読みとろうとせず、それを孤立させ、挫折させたり捻じ曲げてしまうような、「大衆」(多数者)の側の「想像力」の犯罪的な欠如ということであり、そういう形で働いている権力の仕掛なのだ。
レトリックを、ぎりぎりの場所からの「連帯」を求める声として聞き届け、またそういうものとして生きさせるような関係性を作りだして行くことは、レトリックの使用をその他者たちに余儀なくさせている、われわれ傍観者の責任にこそ属することだと言うべきである。