決まったからには仕方がない

この記事にはさすがに驚いた。


東京五輪、決まったからには 招致反対の立場から注文
http://www.asahi.com/national/update/0911/TKY201309110508.html



この新聞は、開催地が東京に決定する直前まで、汚染水の問題の深刻さを認識できていない日本の招致委員会や政府・自民党の姿勢について批判的に報道していたはずだ。
つまり、原発事故による放射能汚染が日本側の主張なり認識なりに反して、きわめて深刻な問題であるという考えが、報道の暗黙の前提になっていたはずである(無論、逃げ道は用意していただろうが)。
これは、そうとはっきり書かないまでも、原発事故は収束しておらず、汚染の現状と可能性は深刻であり、そのなかで東京五輪を開催することは、その現実を覆い隠して人々をなおいっそうの危険にさらす暴挙だという批判的な意見の表明であると、僕は思っていた。
それが、いざ東京開催が、それも安倍首相のあの大嘘の演説によって(元々開催は決まってたからこそ、安倍は現地に行ったのだろうが)決まってみると、要するに大勢には逆らわないという地金をあらわにしたというべきか、「東京開催」の暴力性や欺瞞性に対する批判はすっかり引っ込められてしまい、あくまで開催を前提として、それにあたっての「長所・短所」の提示という、「前向きな」論調に転じてしまったのだ。

《指摘されてきた2020年東京五輪の主な長所と短所》

●長所

・経済効果(東京招致委は3兆円と試算)

・観光客が増える(招致委は大会中1010万人と試算)

・スポーツを楽しむ文化の広がり

・首都のインフラ整備促進

●短所

・東京への一極集中、地方との格差拡大

・福祉政策や教育政策が後回しになる可能性

・資材高騰による被災地の復興事業への悪影響

・首都直下地震など大災害の際の安全性

もちろん、ここには本質的なことは何も書かれていない。
「東京開催」が悪であるのは、それが甚大な被害を出し続けている原発事故の現実を糊塗する目的で行われるものだからであり、その被害からの救済や脱出(避難)、また震災と事故と放射能原発自体とによって何重にも破壊された人々の生活の回復を、不可能にしてしまうものだからだ。
東京五輪は、人間の生活に対しては、破壊しかもたらさないだろうが、それはこの開催が、破壊的な現実の隠ぺいを目的としたものであるからだ。
安倍首相のスピーチは、その欺瞞を決定的なものにした。あれは、たんに虚偽の陳述とか、無知の表明ということではない。今後も被災と被爆の現実に苦しみ続けることを人々に強要する、権力者の暴力の公然たる行使なのだ。


生活の破壊という根本的性格は、もちろん今回の東京五輪だけでなく、国家や大資本の全面的な関与のもとに競争が行われる、いまの五輪全体にあてはまるものだろう。
だから、そういう巨大で反生活的とも呼べるような巨大イベントを、今の日本で行うということ自体が、この政権と現在の日本社会の、破局的な在り様を現わしているともいえる。つまり、この五輪開催に熱狂するようなわれわれの社会は、やはりどこか既に狂っているのである。


それにしても、この記事の「決まったからには」という表題は、ファシズムに迎合していくことへの記者の自嘲が込められているのではないかと勘繰ってしまうほどに酷い表現だ。
これはかつて日本が、戦争になだれ込んでいった時の、根本的な態度変更の特徴を示す言葉ではないか。
軍部の暴走や暴挙に、一応表面では抑制的・批判的なポーズをとってきた政治家やマスコミも、いざ事(事変)がはじまってしまうと、「決まったからには仕方がない」という理屈で、易々と戦争に加担していった。それがこの国の社会の、集団的暴力の表出の型であることを、もうすっかり忘れたのだろうか。