暴力について

今年何度か参加した原発反対のデモの最中に、若い警官から、耳元でスピーカーで暴言を浴びせられたりすることがあって、疲弊した。その時は、他人を自分の思い通りに行動させるために、あれほど粗暴で憎悪に満ちた態度や言動がとれるということが、怖ろしくもあり奇異にさえ思った。どういう心理構造で、あそこまで抑圧的な行為に熱中できるのか?


だが、後日気がついたのは、ああいう態度は、僕自身も日常的にとっているものだ、ということである。
たとえば、家で毎日、ベッドに寝たきりになっている母親の世話をしているのだが、世話をしているとき、自分の思い通りに体を動かしてくれなかったりすると、ちょうどあの警官達のような口調や態度で、怒鳴ったり粗暴な振る舞いをしたりする。
最近は、母自身がそれに対して怒りをあらわにしたり(これまでにあまり無いことだった)、デモでそんな体験をした影響もあって、自分がやってることのひどさに気づいて、多少は優しく接するようになったが、無意識に体のなかに詰め込まれたようなものなのか、しばしばそんな態度になることがある。


それで、気づくと自分があんなひどい態度をとってるということもショックだったのだが、それ以上に、そのことに気づくまでに日数がかかったということが、もっと深刻なことのように思えた。
あれほど生々しい被害的な体験をしていながら、その行為が自分自身が行っている体質的な暴力と同型であること、少なくともよく似たものだという歴然たる事実に、僕はなかなか気づくことが出来なかったのだ。そして、たんに理解不能な他人の行動として、それを捉え、首をかしげながら非難してたのである。
このタイムラグというか、認識上の深淵には、言い様のないものを覚える。そこに薄っすらと見えている、大きなものの影に。


暴力の行使が体質的になってるということは、きっとそういうことなのだろう。
それは自分が生きていることの実像、その力や他人との関係というものを、自分自身のものに出来ておらず、言わば奪い取られたままだということだ。
そして、この奪い取られてあるという事態が、この世のもっとも根本的な暴力なのだろう。
自分の体質的な暴力の自覚をとおして、この奪い取られてあるものを少しでも取り戻していくことが、この現実の世を覆っている根本的な暴力に対抗する、確実な道と言えるのではないかと思う。
それは容易いことではないが。