『ストリートの思想』

ストリートの思想 転換期としての1990年代 (NHKブックス)

ストリートの思想 転換期としての1990年代 (NHKブックス)




この本を読むと、2000年前後になって外国の影響で突然現われたかに思える、様々な運動・表現の形態(たとえば、サウンドデモにもつながっていく、ある種のヒップホップなど)が、決して外国の流行のたんなる輸入ではなく、むしろ70年代末から80年代初めにかけて、消費社会に対抗する形で日本に発生していたインデペンデントな文化の延長としての面を色濃く持っていることを教えられ、認識を新たにすることになる。
 つまり、そうした表現や抵抗の形態は、80年代以後の日本の社会の変化に即して生じてきた、運動と文化の姿でもあったのである。
 この時代は、ふつう、社会運動が起きなかった時代であるかのように語られることが多いが、著者の個人的な回顧をふんだんに取り入れた本書の記述は、そうした一般的なイメージが偏見であることを、よく伝えている。


 だが、この本の最後に近いあたりを読むと、著者自身が、日本社会の作り出す政治運動についての、偏見をはらんだイメージの力から十分に脱していないのではないかと、疑わざるをえない。
それは、最近の反原発デモにおける、日の丸や君が代をめぐるトラブルを見聞した今となっては、やはり批判的に言及しておかざるをえないことなのである。


最終章では、「右と左は手を結べるか」というサブタイトルが付けられた雑誌『ロスジェネ』創刊号の内容が詳しく紹介され、そこでは「右」「左」の立場を越えて、論者たちに「共有されている基盤」があるように思われることが指摘されている。
それはまず、貧困やフリーターなどの社会問題を「世代の問題」として捉えるという認識であり、また「自分自身について語ることを出発点にしている」という「語り口」の共通性であるという。「ロスジェネ」世代の論者たちは、「多くの場合、自分の立ち位置が主張の出発点になっていること」が、伝統的な左翼知識人との決定的な違いであると、著者は言うのである。
 そして、このような傾向が持つマイナスの面として、著者は世代的な、または階級的な『唯一の「敵」』が想定されてしまう危険を語る。

秋葉原通り魔連続殺人事件の唯一の「敵」として、非正規労働者に過酷な条件を押しつける国家や資本を名指しすることは、一見わかりやすい物語だが、危さをはらんでいる。そこには、本来多様な欲望をひとつの方向へとまとめ上げ、動員しようという全体主義的な志向がまぎれ込んでいるのではないか。個人的な「怒り」を媒介とし、共通の「敵」を特定することによって、本当に「右と左は手を結ぶ」ことができるのか?そこで「手を結ぶこと」からこぼれおちてしまうものがあるのではないか?(p240〜241)


ここで「全体主義的な志向」と呼ばれるもの、またそれによって「こぼれおちてしまう」ものとは何だろうか。
文中にあるように、問題になっているのは、「多様な欲望」ということだ。「多様な欲望」を統合し、動員するものが、警戒の対象とされている。
この欲望の内実は、あまり問われていないように思えることが気になるが、ともかくここでは、「右と左は手を結ぶ」ということ自体が、全体主義的であるといって非難されているわけではなく、そのことによって出来上がる集団(ロスジェネ世代)のなかに「全体主義的な志向」が「まぎれ込んで」、それによって「多様な欲望」が抑圧されてしまう(こぼれおちてしまう)ことが警戒されているのである。
「まぎれ込んで」くる者、警戒すべき敵が、「全体主義的な志向」という抽象的な名によって名指されている。


 さらに、こう続く。

個人的な「怒り」は出発点にはなるが、そこには限界もある。「怒り」が個人的なものにとどまる限り、「怒り」を共有できる自分たちと、そうでない他者との間に境界線が引かれてしまう。共有できない存在は、単に他者として排斥されるだけではなく、「敵」として名指しされる。この個人的な「怒り」が特定の集団によって特権的に占有されると、日本の左翼政治にしばしば見られるように、「内ゲバ」という救いようのない出来事が生じる。
 ロストジェネレーションの議論が、「自分たちの世代」から出発するのは必要なことかもしれない。けれども、どこかで「自分たち」という枠を超えない限り、そうした「怒り」は必ず党派的な分断と結びつく。
 「ストリートの思想」とは、徹底的に個人的でありながら、同時にそれを多種多様な人々に開いていく思考法である。ストリートは、あらゆる世代に、あらゆる階級に、あらゆる世代に開かれている。「ストリートの思想」が闘うべき相手は、そうした開放性を脅かす存在である。(p241)


これ以上、くどくどと文句をつけるのはやめにしよう。
ただ気になるのは、ここに来て、本書の中ではそれまでほとんど登場することがなかった、「左翼政治」、「内ゲバ」、「党派的な分断」といった、それこそジャーゴンのような言葉が、唐突に書き連ねられているという印象を受けることだ。
そうした、内実の定かでない言葉(概念)によって、ここでは、「左翼」という、いわば『唯一の「敵」』が、作り上げられ、名指されているのではないだろうか?


ぼくは、これは一種の政治的な排除だと思うが、著者が意識して、そういう思想を述べているとは思わない。
ただ、日本の政治状況のなかで、「左翼」に負のイメージだけを押しつけ、市民的な自由な表現の空間や国民的な日常といったものから排除しようとしてきた、国家による「全体主義的な志向」の力の内部で、この著者が運動や表現について考えてしまっているのではないかと、疑うのだ。
つまりここでは、「左翼政治」内部の「全体主義的」な傾向については批判されているが、より強大な力で排除を遂行しているはずの(その排除の対象には、もちろん「左翼」自体も含まれるのだが)、国家や社会全体に対する批判は、なぜかこの文脈においては、まったく姿を消してしまっているのである。
いま、何にもまして問われるべきなのは、この真空がはらんでいる政治性と暴力性であると思う。