ひさうちみちお『托卵』

托卵

托卵


巻頭にこうある。

この物語は、托卵という郭公の習性に人間の生への情念を重ね、差別され続ける民族と差別する民族を描いたものである。


普通こういうテーマの作品だと、差別される側の視点から苦しみや怒りや悲しみを描くものが多いと思うが、ここでは主に描かれるのは、差別する側の内面、というよりも、「差別する存在である人間というもの」の普遍的な内面(情念)である。


虚構の世界だが、現実の歴史としては、ヨーロッパの中世をモチーフにした世界を舞台としている。
国を越えて力を持つ中央教会の勢力下にある国のひとつに、「カッコー」と呼ばれる流浪の民が移り住んで暮らしている。この人たちは、もともとは芸能の民とされていたようだが、その多くは商業を営み、少数だが成功して巨万の富を得た者もある。
もともと定住していた人たちの間には、この人たち、ないしこの状況に対する不満や怖れが潜在しているようで、そのことを利用して社会のなかに憎悪や暴力を拡大させ、それを操作して権力を得ようとする政治家たちがうごめいている国である。


この少数者である「民族」は、「カッコー」とあだ名されていて、作品のなかにもそれ以外の名が出てくることはない。そのあだ名の由来は、この人々が、郭公やホトトギスの托卵のように、子どもが生まれたばかりの家(多数者の人たちの家庭)に忍び込んで、その家の子(赤ん坊)と自分たちの子どもとをすり替えてしまい、つまりは「カッコー」の子を知らずに多数者の親達に育てさせると信じられているからである。
この俗信は、作品のなかで一度も立証されることがないが、人々はその噂を信じており、自分が実は「カッコー」の親の子ではないかと疑っている子どもや大人も多いようだ。


もっとも、自分が「カッコー」の子であると確信することは、(「カッコー」の人たちとの間に外見上の違いはないようなので)当人には不可能だろう。かりに誰かにそう告げられたとしても、そう告げられたことが事実だと確信することは(今のように科学も発達してないし)当人には出来ないと思われる。生まれた直後の記憶などないだろうからだ。同様に、自分が「カッコー」の子でないと確信することも、主観的には不可能だ。
両親にしても、突き詰めると、このことの確認は難しいはずだ。だからこそ、この噂が力を持って流布しているのである。
すなわち、ということは、この「カッコー」の俗信が、人々の不安を表わすものであると同時に、人々の不安を醸成し強める働きをもったものでもある、ということが分かる。


そして、これは余談だが、「カッコー」ほどはっきりしたものでなくても、自分や自分の子の出自が確定しがたいという不安、血縁というものと存在のアイデンティティとが一致しないという不安というものは、人間の社会にとっては(血縁にこだわり続ける限りは)抜きがたいものであり、もしそれがない時は新たに醸成されて補充されてしまうような要素ではないかと思う。
つまり、それは常に要請され(欲望され)、作られるのだ。


この物語では、自分も「カッコー」ではないかとひそかに疑っている「ボスコ兄弟」という修道士が、重要な登場人物として出てくる。
この作品では、人の内面がことさらに描写されることはあまりないのだが、この「ボスコ兄弟」の心理は、読者からはチラッとしかうかがえない不透明なものとしてだが、その影のようなものが描かれている。
作品のはじめの方で、やはり自分が「カッコー」の子ではないかという疑いを抱いている少年との会話のなかで、托卵されて孵った(本物の鳥の)郭公のヒナが、自分が本当の子ではないと気づいてもヒナは他の卵を殺すような酷いことはしないのではないかという子どもの問いかけに、「ボスコ兄弟」は、こう呟く。

そうだねえ
それはその
通りだが


でも・・・
どうだろうか
生れ出た瞬間に
眼も見えず肉親
の保護と愛を必要と
してる時に自分が一人ぼっち
である事を感じたとしたら


これは、自分が「カッコー」ではないかという疑い(不安定さ)を抱いている「ボスコ兄弟」が、その不安定さのなかで自分の内面を見つめたときに見出した、暴力の予感のようなものではないかと思う。
だが、この暴力は明らかに、「差別する者」(としての人間)のなかに兆しているものである。
つまり、「カッコー」がそういう酷い行為をするだろうということではなく、自分もまた、すがりたいものが不安定であることを突きつけられたときには、そうした暴力(差別)へと走りかねないということを、ここで「ボスコ兄弟」は薄っすらと感じているのだ。


こうした暴力への衝動が強められるのは、「すがりたいもの」の不安定さがことさらに隠蔽され、人が依存のなかに縛りつけられるような社会、幻想への依存が是認されていて、その依存が危くなった時には、不安や怒りが爆発して差別や暴力に向かうというメカニズムを持つ社会によってだろう。
この作品が取り組んでいるのは、そうした社会のメカニズムだとも言える。


また物語では、「ボスコ兄弟」の夢の場面も描かれる。
そこでは、棕櫚の葉が茂る夜の川べりで、「カッコー」と思われる彼の母親が、揺りかごに赤ん坊を乗せて運んでいる。これは明らかに「異教」的な女性のイメージである。
それを(あたかも)キリスト教預言者か、もしくはイエス自身を思わせるヒゲ面の男が呼びとめて、忌まわしい悪の種子を他の民族に委ねるなと言い、女を繁みのなかに誘う。ここでこの二人は情交することが暗示されるのだが、成人している「ボスコ兄弟」がこの場面に登場してきて、「お母さん」と手を差し出し引きとめようとする。だが両脇を兵士のような男達に抑えられ、火刑に処せられてしまう。
この場面では、自分の母親(不安定で孤独な自分が、最も依存しすがりたい対象)が、自分を棄てて大人の男の元に行ってしまうということへの不安や焦燥が、「ボスコ兄弟」の心の底にあることが示されてるのだと思う。
それは恐らく、憎悪や暴力への、とりわけ性的な対象としての女性に向けられる男性の憎悪や暴力の、根を描いている。
差別や暴力が制度的に奨励されるかのような社会では、こうした感情も、強く否定されたり抑制されるということはないであろう。


この物語は全体としては、「カッコー」の存在をめぐるさまざまな政治的闘争や陰謀を描いていて、もはや書くまでもないが、今の日本社会の状況を想起させる挿話に満ちている。
作者が、80年代の末から90年にかけてこの作品を書いたという洞察力には、驚くしかない。


そのなかでも特に印象深いのは、権力を握ろうとする政治家から金をもらって市井の「カッコー」の人々に暴力をはたらいて回る「青年隊」と呼ばれる、ヒトラー・ユーゲントか愚連隊のような連中だ。
このグループは、「カッコー」が多くを占める商業の隆盛のおかげで生活が苦しくなったと思っている(とりわけ権力者に、そう思うことを奨励されてるのだろうが)貧しい農家の息子たちなどで構成されている。
その一人に、「ピッポ」という若者が居る。彼は、政治家にそそのかされて、殺人や裏切り行為を行うのだが、実家のある農村に帰ったとき、女手ひとつで彼を育ててきた老母の農作業を手伝う場面が描かれる。
そこでは母親の口からも「カッコー」への憎悪が語られ、母子の気持ちのつながりが描写されるのだが、母親が「亭主運は悪かったけど・・」と別れた夫のことを口にしかけると、ピッポは、『おやじの事なんか言うな、あんな奴最初から居なかったんだ』と強い口調でさえぎって、母親をたじろがせる。
ここでは、精神的な安定を得たい(依存したい)対象である母親が、妻という性的な存在に戻って、自分の支配下から離れていくことへの、ピッポの強い嫌悪と不安が描かれているのだろう。母親もまた、そうした息子(=男性)の欲望に応じる(あわせる)ことで、自分のこの社会での権益を守ろうとする。
そうやって、この差別的な社会のメカニズムは機能し続けるのである。


作品は、差別に憤り、その撤廃や、あるいは独立を求めて(内部でもさまざまな主張の違いがある)闘ってきた「カッコー」の人たちが、権力者・多数者たちの罠にはめられて、凄惨な結末を迎えるところで終っている。
この最後の場面での「ボスコ兄弟」の選択も、深い余韻を残すものだが、ぼくにはまだ語れる言葉がない。