過ぎ去ろうとしない君が代問題


題はパクリです(笑)。



7月31日の大阪の反原発サウンドデモの時に起きた、君が代サウンドデモのスピーカーから流されたことをめぐる議論については、このブログでも意見を書いてきました。
http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20110807/p1
http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20110814/p1

実際に出来事を体験したり、実行に関わった人たちの間で話し合いがなされ、またそれを踏まえて主催側(呼びかけた人たち)からの状況説明や詳しい意見の表明が、ホームページなどでなされるのを待ちたいと思っていたのですが、今になっても、ホームページには次のような非常に短いコメントが出てるだけなのは、大変残念です。
http://osaka-antinukes.tumblr.com/

7/31に行われましたナツダツゲンパツサウンドデモは、個人の集まりにより運営されており、それぞれの多様な表現で「脱原発」を目指しています。

今回のデモにおいて、一部の音楽の意図が参加者の方々に伝わっていない状況が起こりました。

今後は、そのようなことに配慮し、しかし、サウンドデモの自由さが失われないように、多くの人と繋がりながら「脱原発」のための活動を行っていきます。

正直、この文章では、事情を知らない人には、何が起きたかよく分からないでしょうし、どういう経緯でそうなったのかも分からない。
そして、どんな批判があり、それに対してどういう応答がなされたのかも、まったく書いてないわけです。これでは、「多くの人と繋がりながら」と書かれていても、その真意を図りかねるというのが、率直な感想です。


また、この件について、抗議したり疑問を投げかけてる人たちと、サウンドデモを主催・実行した人たちとの間で、十分な議論が行われ、なんらかのまとまった結論がなされたという話も聞きません。というより、そうなってないという話しか聞きません。


ぼくは、この日の出来事を直接経験したわけでもないし、準備・実行や、その後の議論に関わってるわけでもなく、すべて伝聞でしか事情を知らないので、たいへん物が言いにくいのですが、ホームページを見る限り、状況が動いていないことは確かだと思うので、
あえて(何度かサウンドデモに参加してきた人間として)今の自分の気持ちを、もう一度書いておきたいと思います。




今、ぼくが一番迷いがあるのは、君が代を、何らかの「表現」の手段として使ったということについてです。
右翼的・保守的な人にとっては、これはきっと不敬なことと感じられるでしょうが、もちろんそういう意味ではありません。
用語がよく分からないので、あえてパロディという語を使いますが、そのパロディとしてであれ、君が代をデモのなかで、大きな音量で流したということ。


ぼくの考えでは、君が代は、善か悪かと言われれば、はっきりと悪です。これはぼくの主観に過ぎませんが、ここでは主観が最も重要でしょう。
しかし、もしぼくが伝え聞いているように、表現者君が代を流したのは、あくまで表現の手段、パロディとしてであるとすれば、それさえも否定できるのか?
この表現者(直接にはDJ)の意図については、まだぼくははっきり分からずに居るのですが、ここではもっとも善意に解釈して、君が代を直接に政治的に貶しているわけではないにせよ、パロディの材料とすることで何らかの自由さを現出させようとした、というぐらいに考えて見ます。
だとすれば、ぼくは個人的には、そういう表現も「あり」だろうと思います。


しかし、表現として「あり」だということは、それが何の問題も持たず、何の批判も受け付けない行為であるということを意味しない。
それは、受け取る人によっては、また表現者の技術の巧拙や、準備の不備などによっては、何らかの害を及ぼすものでもあります。
一般的に言っても、表現の暴力性ということは常にあるのです。
だから自粛しろということではないけど、そこで生じる被害の可能性、悪影響の恐れには、常に自覚的であり、また批判に対して開かれている必要がある。
しかも、これはたんなる個人的表現行為ではありません。
デモという、集団による、街路という表現の場での、しかも政治的な主張を行っていると見なされる場での、大音量による表現行為なのです。
デモには、さまざまな立場の、たくさんの参加者達が居る。飛び入りの人も居たかもしれない。
それ以上に、沿道の一般の人たちに向かって、その表現は投げかけられてるわけです。


だから、そこで行われた表現に対して、腹が立ったとか、疲弊したとか、傷ついたという声が寄せられたなら、表現した当人のみならず、それ以上に、デモを呼びかけたり実行にあたった人たちには、それに誠実に応える責任がある。
ぼくは、そう思います。
デモは、参加者全員が平等な立場で作っていくものだという意見も聞きますが、だからこそ、議論・話し合いは、オープンに、十分に行われなければならない。


ぼくは別に、「謝罪しろ」とか「反省しろ」と言いたいわけではない。
場合によっては、そう言われても仕方が無いケースかもしれないけど、表現した側の意図についてはよく分からないわけだし、「どんな形でも君が代をデモの表現に使ってはいけないのか?」と聞かれたら、ぼくはそうは思わない。
しかし、どんな意図で行った表現であるにせよ、それは被害や悪影響を及ぼす原因になるし(その可能性もない表現は、むしろ無力だろう)、まして君が代というようなものを用いるのなら、なおさらその危険は高い。
だから、それが適切な表現だったのかどうなのか、被害を受けたとか不快だったという声に対してどう対処するのか、またあるべき表現とはどんなものであり、集団的な抵抗の場での本当の「表現の自由」とはどんなものなのか、そういったことは真剣に考えられ、実行側からはちゃんとした意見の表明がなされるべきだと思う。


ぼく個人は、この件について、納得のいく解決がなされたと思えない限りは、大阪のサウンドデモの現場に出向くことは嫌です。
あれだけ警察に嫌がらせをされ、知り合いの目線を気にしながら歩くだけでもプレッシャーなのに、身内でそんな気持ち悪い状況があるのなら、なおさら参加するのは嫌だ。
ほかにも反原発の行動はいくらもあるので、そちらに参加したい。


が、ぼくがどう思ってるかなどは、あやふやだし、たいしたことではない。
何よりも、これまで運動を一緒にやってきた人たち、新たに出会ったような人たちの間に、こうしたことで亀裂が入ってしまうことが、一番残念です。
どうか、とくに実行側の人たちは、話し合いの場を設けるなりして、この件について本格的な議論を行うよう努力して欲しい。
これまでにそれが行えなかったことには、きっと実行側の人たちにも、それなりの言い分があるだろうが、どうかもう一度、誠実な対処をしてほしい。
そして、ホームページなど、目に見える形で、その話し合いの結果を、一般の人間に発信してもらいたいと思います。