再び君が代問題について

まえにも書いた、先月31日の大阪のサウンドデモでの君が代をめぐる問題、主催のホームページに短い声明の文章が載っています。
http://osaka-antinukes.tumblr.com/


これはとりあえずのもので、今後さらに議論が深められていくのだろうと思います。
ここでは、この出来事について、今の自分の考えをちょっと書いてみます。




ぼくはなぜ、君が代(や日の丸)が、自分の参加する(今回は参加できなかったが)脱原発デモで用いられることに反対するか。
まず確認しておきたいのは、君が代や日の丸というのは、それ自体が日本という国家の政治的な暴力性(過去の侵略、現在の排除性など)の象徴だということだ。とりわけデモという(政治的な)主張の場において、それを演奏したり掲げたりするということは、その(特殊的な)政治的暴力を、参加者たちが人々に対して突きつけていることになる。
もちろん、立場や考え方によって、それを暴力と受け取らない人も居るであろう。
だが今の日本の街路で、日本人が(おそらく)多数を占めているデモで、日の丸や君が代が用いられるということは、それが国家全体の暴力性を体現しているものだと受け取られる可能性が高い。君が代や日の丸によってなされる統合から排除される位置にあると実感している人たちにとっては、とりわけそうだろう。
侵略や排除の象徴である旗や歌をおおっぴらに使いながら、政治や国のあり方を変えろという趣旨のデモを行うということは、そういう暴力的・排除的な国のあり方を支持すると表明して歩いているのと同じである。
そんなバカなことが出来るか、というのだ。
まずこの事が第一である。


原発の問題の本質は差別の構造にあり、その差別の構造を象徴するものが、君が代であり日の丸なのだから、原発反対を掲げるデモでそれらを公然と使用することはおかしい、という考え方がある。
ぼくも、その通りだと思う。
たしかに、日の丸・君が代によって象徴される(日本の)侵略や差別の問題と、原発(という暴力性)の問題とはまったく同じではない。どこの国にも原発はあるし、石炭や石油(それに自然エネルギー)のもとでも日本国家の悪い構造は存続してきた。
だが、侵略や差別というあり方を反省せず変えてこなかった日本という国が、まさにその「変えない」という目的の為にアメリカと従属的な関係を結び、そして原子力放射能というものの危険を容認する国家になったということを考えると、「侵略・差別」の問題と、原発(体制)の問題とは、日本の文脈においてはほとんど必然的と言ってもいいような結びつき方をしていると思える。
原子力・核エネルギーの存在は、どこの国でも、差別や植民地主義などと深く結びついてきたと考えられるけれど、日本においてはとくに「侵略・差別」(日の丸・君が代)と、「原発を容認する社会」との関連性は深いのだ。
少なくとも、「反(脱)原発」を日本に住む私たちが自分の問題として捉えるときに、日の丸や君が代に象徴される「侵略・差別」の問題に直面することは、ぼくには避けて通れない道であると思える。


もちろん、こうした問題を考慮せず、日の丸や君が代を「普通に」受け入れながら、同時に反原発デモに参加する人たち(そういう人が大多数ではあるだろう)と、一緒にデモを行ったりすることはできる。
だが、それらをデモの場で演奏したり掲げるという行為は、それが先に書いたような強い暴力性を有する行為であることを考えれば、容認するべきでないし、まして自分は絶対にそこに加担したくない。
これは、表現者の意図がどうだっか(パロディだったか)ということとは、関係がない。
それは現実に暴力として、日本の街角での行動としては非常に強い暴力性を帯びた行為として働きうるものなのだから。






いま書いたようなことは、パロディというような表現行為(表現の自由、多様性)の以前にある問題、それを射程におさめることによって初めてパロディなり何なりが表現として力を獲得できるような次元に関わる事柄だと思う。
今の日本ではなぜ、「政治色を脱する」とか「多様性を認める」という方向性が、日の丸や君が代の使用(表現者の主観においてはそれが「パロディとして」のものだったとしても)という事に帰結するのだろうか。
ここが、もっともよく考えるべきところだと思う。
日の丸や君が代を(パロディだというエクスキューズを付けながらであっても)用いることが、またそれらが他者への暴力として働きうる可能性には目を閉ざすことが、自然で自由な心のあり方だと考えられ、それがあるべき社会を可能にするための条件のように、人々に思われているのではないか。
だとすればそれは、侵略や排除や差別によって成り立ってきたこの国のあり方に深く同一化しているということ、それによって原発が成り立ってきたものでもあるそうしたこの国の論理の枠内でしか、多くの人が、表現とか自由とか多様性といったものを考えられなくなっていることを意味するだろう。
本当は、そういう国家による(無意識的な)拘束に対する批判や拒絶のないところで、どんな表現も、力や自由に達することはないはずなのに。


自己が有する暴力(力)の次元に無自覚なままの、言い換えれば自己の他者との現実の関わりの次元に目を閉ざしたままの、「表現」者の意志が、日の丸や君が代によるパフォーマンスという国家的暴力への加担行為を選択すること、またそれが実際にはどんな表現上の効果も生み出せす、たんなる暴力の露出に終ってしまうことは、ぼくには必然的であると思える。
「政治色を脱する」とか「(政治的な)多様性を認める」という物言いが、実際には、みずからの政治的力への無自覚さ(暴力性への開き直り)を正当化するためのものとして働いていることは、日本という国家の体質を維持したい者たちにとっては好都合だろう。