『嘔吐』

嘔吐 新訳

嘔吐 新訳


たいへん有名な小説だが、今回初めて読んだ。
鈴木道彦氏によるこの新訳は、去年出版されたものである。


読んでみて思ったのは、意外に話にふくらみがあり、本格的な長編のようになっている、ということだった。
ひたすら主人公ロカンタンの内面を描いているのだが、後半では元恋人の女性が登場したり、ブルジョワ社会の風俗についての詳しい記述があったり、それなりに色んなことが書いてある。
それでも中盤までは、圧倒的に内面の状態や変化の記述で、正直読み進めるのがしんどい。そして、後半の急展開は、逆にややとってつけたような感じもある*1
そういうわけで、読んで面白いという小説ではないのだが、やはり感心させられる作品ではある。


「あとがき」を読むと、鈴木氏は今回、従来の訳で使われていた「実存」という語を一切用いず、existences、existerという語を大部分、「存在」、「存在する」と訳した、とある。
実際読んでみて、それには何の違和感もない。むしろ、これらが何箇所かで「実存」と訳されていたという旧訳の感じが、ピンとこない。
主人公ロカンタンは、この世の事物の存在がすべて偶然で無意味であり、自分(を含めた人間たち)の存在もすべて同様であるということを次第に発見して、衝撃を受ける。

私は存在する権利を持っていなかったのだ。私はたまたまこの世界にあらわれて、石のように、植物のように、微生物のように、存在していた。私の生は行き当たりばったりに、あらゆる方向へ伸びていく。(p142)


有名な「マロニエ」の場面に至るまで、その内面描写は、この「存在」(事物と自分自身との)の圧倒的な無意味さという認識(実感)の徹底の様子を描いていると考えられる。
だからこれらは、すべて「存在」に関する記述であるとしか考えられないのである。



そして、この「存在」に対する感じ方(「吐き気」)は、主人公自身が所属するブルジョワ社会に対する彼の反感と、関係付けられて描かれている。

それが<吐き気>だ。それこそ不潔なやつらが――<緑の丘>に住む連中やその他の連中が――権利という観念で自分に隠そうとしたものだ。しかし、何とお粗末な嘘だろう。誰も権利など持っていはしない。彼らもほかの人間と同様にまったく無償であり、自分を余計なものと感じないわけがない。また彼ら自身も口でこそ言わないが、内心ではあまりに過剰な、つまり形の定まらない、曖昧な、悲しい存在なのだ。(p218〜219)


すると、この「吐き気」を率直に受け入れるということが、つまり(自分の)「存在」の無意味さを受け入れ、そこから自分の生を始めるということが、主人公が暗に望んでいる方向、ということになるだろうか。
金利生活者であるロカンタンが、強い情動を帯びると(僕には)思われる場面は、彼が自分にどこか(鏡像のように)似た存在、ブルジョワ社会において「無意味な」「余計もの」あるいは、指揮官に対する「兵隊」のような、侮蔑され従属される位置に置かれていると考えられる人物に出会ったときである。
酒場で老医師に侮蔑される、アシルというみすぼらしい男に出会う場面では、ロカンタンは、次のように自分の存在を省みる。

いったいどこに私は過去をとっておくことができようか?過去はポケットに入らない。過去を仕舞っておくためには一軒の家を持つ必要がある。私が所有しているのは自分の肉体だけだ。まったく独りぼっちの男、ただその肉体しか持っていない男は、思い出を固定することができない。思い出は彼を通り過ぎてしまう。それを嘆くべきではないだろう。私はただ自由であることのみを欲したのだから。(p111)


そして印象深いのは、物語の終盤に近づくと共に、「恥」という情動をあらわす訳語がしきりに登場するようになることである。この言葉の登場と共に、主人公の他者についての意識が変容していく。
やはり主人公にどこか仲間意識のようなものを(近親憎悪的な感情と共に)抱かせる「独学者」という男が、侮蔑を受けるのを目撃する場面では*2、この侮蔑を行った「コルシカ人」の襟首から手を放しながら、次のように感じることになる。

なぜ彼(「コルシカ人」:引用者注)を放したのかいまだに不思議である。面倒なことになるのを恐れたのか?ブーヴィルで怠惰に過ごした歳月が、私を鈍らせたのか?以前だったら、彼の歯をへし折らずに許すことはなかっただろう。(p280)


また、

私は階段の下で独学者に追いついた。彼の恥が私も恥ずかしく、気詰まりで、言うべき言葉も知らなかった。(p280)


この場面では、主人公(「私」)と「独学者」とは、「恥」という情動(ここでは、それは性と結びついている)を通して、ほとんど一体化してしまっている。というより、「私」の情動が、「独学者」を一方的に飲み込みんでしまいながら、強い共感を感じているのである。



この「恥」という語は、結末部では、次のように登場してくる。

ところが今は、このサクソフォンの歌がある。そして私は恥じている。輝かしい小さな苦悩、典型的な苦悩が生まれたのだ。(中略)要するに、自分たちだけで、ただ自分たちだけでいたために、存在の身を委ねきっていた私たちみんなは、だらしない日々の投げやりな状態のなかで、このダイヤモンドのような小さな苦しみに不意を衝かれたのだ。私は恥ずかしい、自分自身のために、またその苦しみの前で存在しているもののために。(p290〜291)

たとえば、起り得ないような物語、一つの冒険だ。それは鋼鉄のように美しく、また硬く、人びとに存在を恥ずかしく思わせるものでなければなるまい。(p296)


この結末は力強いのだが、よく考えると、とってつけたような気がしないでもない。
しかし、この結末部がなかったら、この小説は多くの人に影響を与え、読み継がれることはなかっただろう。
サルトルにとって、「恥」という感情が(他者との関係において)非常に重要だったのだろうということと、また彼が常に自分の所属するフランスのブルジョワ社会について深く考えていたこととを、読みながらあらためて実感した。

*1:これは、サルトルボーボワールのアドバイスを受け入れたりして、最終的にこういう構成になったらしい。

*2:このシーンは色々な意味で微妙であり、興味深いのだが。