「逃散や不服従」メーデーに参加して

4月29日に京都であった「逃散や不服従メーデーの集会とデモに行ってきました。


当日の写真は、こちらのブログで見ることができます。
http://unionbotiboti.blog26.fc2.com/blog-entry-128.html


これで見ると、パペットというらしいが大きな人形、デモ中はこの後ろに居たので、どう見えてるのかよく分からなかったけど、ずいぶんインパクトがある。
当日の参加者は、100人ぐらいかなあ?
ぼくはデモの参加者はなるべく多い方がいいようにも思うけど、テレビで見る労働組合の何万人も集まったメーデー集会の映像を見ると、やっぱり数が多けりゃいいってもんじゃないよなあ、とあらためて感じる。
ともかく、この29日のデモは、ぼくにはとても(主観的にも客観的にも)良いものに感じられた。
これはあくまで個人的な思いで、それを説明するのも難しい。
ただ、こう書いたからといって、「良くない」と感じたデモや集会を非難するつもりはない。それは、色んな状況にもよるだろうと思うからだし、またいずれにせよデモを企画・協力したり参加したり人たちの苦労を批判することは、ぼくの立場ではあまりしたくないからでもある。


繰り返すけど、この日のデモはなかなか良い感じであったと思う。
その「良さ」のひとつは、さまざまなメッセージや言葉の書かれたプラカード類が現場にたくさん用意されていて、手ぶらで行った人は、そのたくさんの選択肢のなかから選べるようになってた、ということ。
これは、準備した人たちの苦労と思いやり、考え方がうかがわれるものだった。


それから、これは参加した他の方に示唆されて後で気づいたことだが、この日の集会とデモの、大きな特徴として、女性や子どもを育てる立場の人たちの声が、多く表出されるものになっていたことがあげられると思う。
シュプレヒコールをトラメガで呼びかける役も、たしかずっと女性だったんだよね。
とくに非正規労働をしてる人が子どもを育てるのがたいへんであるという状況があり、だから非正規労働者にも育児休暇をという声や、また男性も育児休暇を積極的にとろう、というような呼びかけがあった。


それから、シュプレヒコールのなかで、たしか「女性を結婚に追い込むな」というフレーズがあり、これはとても感心したのだが、後で考えると「結婚」ではなく、「貧困」と言ってたのかもしれない。
でも、「結婚」でも意味が通らないわけではない。実際、「婚活よりもデモをしよう」というフレーズもあったし・・。
とにかく、ぼくは「結婚」だと思って叫んでいた。


シュプレヒコールに呼応して叫んでるのに、それが正確にどんなものか分かってなかったなんて、滑稽に思えるかもしれない。
実際、滑稽かもしれないが、それでもいいと思う。
言われてる言葉の内容も大事だが、主張の大枠は分かってるわけだから、ともかく大きな声で何かを叫ぶという動物的な表現だって大事だ。


実際、これも実に色々な(多様な)シュプレヒコールが叫ばれた中には、正直叫ぶのに気乗りしなかったり、はばかられるものもあった。
別に思想信条のことじゃなくて、わが身を振り返ると自分がそれを「言われる(非難される)」のならともかく、それを他人に向かって「言う」のは、ちょっと気が引ける、というものもあったのだ。
ただそういう場合は、まあ自他に言い聞かせるためだと思って小さい声で言ってもいいし、本当に気乗りがしなければ言わなくたって、何の問題も無い。実際、シュプレヒコールにあえて唱和してない参加者だって大勢居て、むしろその人たちの方が積極的な参加者だろうと思えるところもあった(でも、唱和したって全然かまわない)。
そして、特段自分の気持ちにピッタリあてはまるフレーズでなくても、そのリズムなりタイミングなり何なりがたまたまあえば、それを大声で叫んだっていいわけである*1
君が代」の斉唱じゃあるまいし(教育現場にそういう「指導」をしてくる右派の政治家が最近増えてると聞くから書くのだが)、別に言葉に「魂」が入ってなくたっていいのである。
もちろん、切実な叫びは、それはそれで大事なものだけど、ただそれも、人が生きてることの「表現」として尊重されるべきなのだ。


要するにぼくが言いたいのは、表現することに関して、あまり反省的・自責的にならない方がいいんじゃないか、ということである。
強制されたり操作されて何かを言わされてると感じるのは嫌なことだし、自分の言葉(声)というものに関して繊細なのは、とても大事なことだ。
ただ、「何を叫ぶか」ということより、ともかく叫ぶこと(もしくは叫ばないという態度)の方が大事な場合がある。そういう柔軟な(自己)表現の場として、デモとかはあるはずだ、ということである。


それから、このメーデーのタイトルに入っている「逃散」という言葉について。
これは、勝俣鎮夫著『一揆』や田中優子著『カムイ伝講義』などの本で広く知られるようになった、江戸時代の農民たちの抵抗、不服従の一形態である。
年貢が重いなどの圧制があると、多くは村ぐるみで、住んでいる村を捨てて他国(他の藩)に移り住んでしまう。この「集団夜逃げ」的なスタイルは、実際かなりの戦術的効果を持つものであったらしい。
ぼくは、この言葉を使っていることを面白いと思った。
その昔、「逃走論」とか日本でも流行った時代があったが、それとはまた違った感覚なのだろう。


しかしこういうことを書くと、この「逃げる」ということを、個人的な逃亡、あらゆる組織や集団性からの逃避(忌避)の意味に理解し、それは集団や連帯に関わるものではない、という風に言いたくなる人も居るかもしれない。
つまり、ゴダールの映画の題ではないが、「勝手に逃げる」ことこそが人生で*2、集団なり連帯なりに絡めとられるのは、うっとうしくて(また、どこか胡散臭くて)かなわん、という気分である。
しかし、だ。
「逃げる」という行為を、そもそもそんな風に「集団的」と「個人的」とに分けて考えることは、二次的な区別に過ぎないのではないだろうか?
なぜかというと、「勝手に」逃げている場合でも人は、自分が孤立して「勝手に」存在しているその場所「空間」を、集団的・共同的なものとして暗黙に前提していると思うからである。
私は、孤立しながら逃げているのだが、まさにその孤立しているという仕方で、私はこの逃走の空間(共同的な場)に所属していること、つながっていることを、密かに知っていて、なおかつそれを実は選んでいるのではないだろうか。



最後に当日のデモの話に戻ると、かなり長い距離を歩いたように感じたし、またともかくすごく時間がかかったように感じられた。
おそらく、そうとうゆっくりしたペースで歩き続けたのだろう。
あまりにスローペースで歩いていたため、ぼくは道中かかり気味となり、次第に隊列の前の方に進んでいって、後半には最前列に出てしまった。
おかげで終着地の公園にたどりつく間際にはバテバテとなり、初めて聞く「わしらスターダストや」のメロディも、ひときわ物悲しく聞かれたものである。
もし最後の直線に坂があったら、後続に一気に飲み込まれて沈んでたことだろう。
「逃げきる」こととは、なかなかに難しいものでもあるのだ。




伝説的な逃げ馬、メジロパーマーによる、直線での見事な「差し返し」。



これは有馬記念。内からレガシーワールドが差し届いてるみたいに見えるが、ぎりぎり逃げ切っている。




一揆 (岩波新書)

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カムイ伝講義

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勝手に逃げろ/人生 [DVD]

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*1:ぼくなんて、ケアワーカーや介護労働者の待遇に関するところでたまたま声に力が入ったので、近くに居た人は、ぼくが介護関係の仕事についてると思ったかもしれないが、まったく関係ない。

*2:ゴダールの映画『勝手に逃げろ/人生』の原題には、「散り散りになって、とにかく生きのびろ」というような意味があるそうだ。