パロディの問題

7月31日の大阪のサウンドデモでは、DJが君が代を流すということがあったそうで、そこここで議論になっている。
http://www.mojimoji.org/blog/0488


ぼくはこの日はデモに行けなくて、事情がはっきり分からないということもあり、また現場に居た人の間で直接に意見が交わされるだろうからと思って、この件についてはこれまで書かなかった。
だが、どうもひとつ気になることがある。
それは、今回の行動(君が代を流したということ)を擁護する側の意見として、パロディとか、要するに表現の技法なのだからという言い分が出されてることだ。
パロディだからということが、君が代を流していいという理由になるとは思わないが、それとは別に、こういう意見(言い訳)を言う人は、パロディとか表現ということについて、考え方が甘いのではないかと思う。


5月か6月の、やはり大阪のサウンドデモの時だったが、デモが終わりに差し掛かったとき、DJから「警備してくれた警察の人たちに感謝しましょう」みたいな言葉があり、「ありがとう」的なフレーズを皆で唱和したことがあった。
きのう、8月6日の東京のデモでも、三人の不当逮捕者(こういうデモにおける逮捕は、原則常に不当だ)が出たそうだが、その時も大阪では釜ヶ崎をはじめ多数の不当逮捕の直後であり、また各地でそうした弾圧が相次いでいた。
それで、ぼくはDJの呼びかけを聞いたときに、「これは一種の皮肉だろう。いや、そうじゃなくマジかもな」と迷ったが、判断もつかず、「皮肉である」と考えることにして、一緒に唱和してしまった。
これは、今から考えると、不当逮捕されてる人たちに対しては、裏切り的な行為だったと思う。
DJの意図がどうだったか、たしかに曖昧だったのだが、曖昧だったということは、各人が「場の雰囲気」のようなものに流されて、自分に都合のいい判断をし、結果としては体制(権力)迎合的な言動や行動を行ってしまう余地を提供したということである。
安易に迎合したぼくらはもちろん悪いのだが、その迎合の機会を提供したということについて、表現者自身も強く反省するべきなのだ。


なぜ「表現者(DJ)の意図が曖昧」と感じられるという事態が発生してしまうのか。
それは、デモにおける表現というものが、警察や国家や社会全体の力に圧迫される、圧倒的に不均衡な力の場において在るものだからである。
そこでは、通常なら「これはおかしい」と判断することでも、防御的に「場の雰囲気」に同調しようという気持ちが強く働く結果、「これはパロディであり、それを肯定しないのは野暮(抑圧的)なことではないか」といった(欺瞞的な)考えが生じ、「おまわりさん、ありがとう」とか口走ってしまったりする(もちろん、あの場で唱和しない人たちも居ただろう。)。
つまり、こういう場では、当人たちはパロディのつもりで呼びかけてることでも、参加者たちが意識しないままに権力に迎合する方向に流れてしまうことの片棒を担ぐ、ということがありうるのだ。これは、表現者自身が自問するべきことだ。
権力に対する明確な意識をもたないパロディは、こうした場では容易に権力の道具になりうる、ということである。


集団に対する呼びかけという行為は、本人の意図を越えて、権力的なものでありうる。
そういうとき、運動側の権力について警戒する意見が聞かれることは多いが、今回のようなケースでは、もっと大きな権力(国家や社会全体の権力)の思惑を意識せずして体現してしまう、ということが起きてるのではないかと思う。
「自由な表現」とか「パロディ」や「皮肉」のつもりでやったことが、なんのことはない、統合したり管理しようとする側の思惑通りの効果をもたらしてしまう、ということは十分にありうる。
まして君が代や日の丸は、この国家による悪しき統合の象徴ではないか。


「パロディ」というものは、その場で現実に働いている不均衡な力関係を視野に入れ、標的にしてこそ、はじめて「自由な表現」として成り立ちうるものだろう。
十分な議論も説明もないままに、突然のように「君が代」という悪しき統合の象徴の音楽を流し、批判されると表現を受けとる側に問題があったかのように答える振る舞い(DJ当人が、どう答えておられるのか知らないが)は、パロディを権力に対する武器として使おうとする積極的な姿勢とは相容れないものだと、ぼくには思える。