『明かしえぬ共同体』

この本の原書がフランスで出版されたのは83年だそうだが、ちなみにこの年日本では吉本隆明の『「反核」異論』が出版されている。

明かしえぬ共同体 (ちくま学芸文庫)

明かしえぬ共同体 (ちくま学芸文庫)


本文は二部構成になっていて、共に著者のブランショと深いつながりのあった、バタイユマルグリット・デュラスをめぐって「共同体」というテーマが語られていく。


ブランショは、ジャン=リュック・ナンシーにおける「共同体」の概念(「無為の共同体」)を、次のように要約しているが、これはブランショ自身の「共同体」論と重なるものだ。

社会的な小単位と違って、共同体は何らかの営みをなすことをおのれに禁じており、いかなる生産的価値をも目的としていない。では、それはいったい何の役に立つのか。何の役にも立ちはしない。ただ、死のさなかにいたるまで他人に対する奉仕を現前させ、そのことによって彼が、孤独に消え去るのではなく、死のさなかで自分が誰かに代補されていると感じ、同時にこうして得ている代補を彼がもうひとりの他者にもたらす、そうした事態が生ずるために役立つといえば役立つだけである。死のさなかのこの交替が合一(コミュニオン)にとってかわる。(p030)


ここでは、実体としての共同体の意義は、極限まで削り落とされている。他者との「倫理」的な関わり*1においてつかの間出現する関わりこそが「共同体」と呼びうるものであり、あらゆる実体的な共同体は、それを基礎として、またそれを裏切りながら成立している派生的なものにすぎない、ということになる。
この基礎的な関わりは、バタイユにならって、「コミュニケーション」という語で呼ばれている。それは、関わりのなかでそれぞれが孤独な存在(個として完結できない存在、その意味での「共存在」)であることを、人が否応なく突きつけられるような関係性であり、それこそが全ての(言語的な)コミュニケーションを成立させる条件である。
突き詰めればこの基礎的な関わり以外を、ブランショは「共同体」と認めないのである。


こうした「共同体」は、歴史の現実の中では、どのようなものとして見出されるのだろう。
ブランショは、非常に印象的な例をあげている。
(訳注によれば)アルジェリア戦争終結前夜の1962年2月、日増しに激しさを増す秘密武装機関(OAS)による無差別テロに抗議した左翼のデモの隊列に、警官隊が襲い掛かり、多数の死傷者を出すという事件が、パリ近郊のシャロンヌという所で起きた。
その犠牲者たちを追悼する集会が、同13日に行われ、数十万とも言われる群衆が、野外に集まったという。
ブランショはここで、「民衆」(フランス語のpeuple)という言葉を用いながら、その様子を次のように書いている。

自分を限定しないために何もしないことを受け容れる無限の力としてある「民衆」の現前。思うに現代において、まぎれもない民衆の現前の確かな例として、黙々と身じろぎもせぬ、無数の群衆が、シャロンヌの死者たちの野辺送りのために集会し、卓絶した規模でその圧倒的な姿を現わした時にまさるものはなかった。(中略)崇高な力、というのもこの無数の群衆は、自分が弱められたと感じることなく、潜在的で絶対的な無能力をおのれのものとして抱え込んでいたからであり、そのことは、彼らがもはやその場にいることのできなかった人びと(シャロンヌの犠牲者たち)を継承するものとしてそこにいたのだということを、みごとに象徴していた。有限なものの呼びかけに答え、それを引き継いで有限性に対抗した無限なもの。そのときそこには、私たちがすでにその性格は定義ずみだと考えていたものとは異なる共同体の一形態があり、共産主義と共同体とが結びついて、ふたつながら実現されるやたちまち消滅していくことをそれら自身が知らずにいるのを受け容れるという、稀有な瞬間があったのだと私は確信している。持続してはならない、何であれ、持続に加担してはならない。そのことがこの例外的な日に聞き届けられた。誰ひとり解散を指令する必要はなかった。人々は、無数の人を集会させたその同じ必然性によって散って行った。またたく間に散ってゆき、何も残さず、闘争グループの形でそれを存続させると称して真実の示威行動を変質させてしまう未練がましい徒党を組織するということもなかった。民衆とはそのようなものではない。彼らはそこにおり、もはやそこにはいない。民衆は彼らを固定化するような諸もろの構造を無視するのだ。(p068〜070)(太字強調は引用者)

強い感銘を受ける文章だが、同時にここには、「共同体」が現実のなかに固定化され、「持続」していくことへの、激しい頑なな拒絶の意思が示されている。
訳者の西谷修は、このブランショの共同体論は、サルトルの集団についての議論に対する一つの異議になっていることを示唆しているが(p126)、そうなのだろう*2
ブランショには、人間の共同性への希求としての「共同体」という純粋性が、実体的な集団の形成や、持続的な政治行動(参加)につながることへの、激しい拒絶の感情のようなものがあるのだ。


ブランショの議論は、レヴィナスからの強い影響を受けているのだが、それは倫理的な関係の対象である他者を、意識の「自同性」のまったく外に置いてしまうような考え方である。
ぼくはここに、ブランショの共同体論が、現実的・政治的過程への拒絶を伴うものであること(それこそが、ブランショなりの「政治的思考」ということになるそうだが)の、一つの理由があるのではないかと思う。
ブランショは、真の「共同体」を政治的・現実的な場よりも根底的な次元に見出してしまうので、現実的過程への参与は、それを裏切ることになってしまうのである。


これはたぶん、ブランショが戦前、明確な右翼であった事実と関係していると思う。
そうすると、日本における「戦前」と「現在」の「民衆」の像のあり方は、そのこととどう類似しているだろうか?この国でも、民衆がやはり「政治的であるべからざる存在」のように考えられているのだとしたら、その根は、どこにあるのか。




ただ、ブランショの議論は、日常における具体的な関係のあり方については、重要な示唆を与えてくれるものでもあるようだ。
たとえば、訳者の西谷修は、ブランショが優れた解釈を与えたバタイユの「内的体験」について、次のようなことを書いている。

いいかえれば体験は、一切の差異を流し去る幻惑の中に主体を呑み込むのではなく、主体の個別性の解消によってもはや主-客の関係の中で客体を知によって支配しようとはしない〈非-知〉と、主体によって所有されるべき客体ではない〈未知のもの〉(もはや知の対象ではありえないもの)との直の接触を生むのである。もはや知の関係、主‐客の関係に限定されず感性的体験と区別されないこの接触、それが〈コミュニケーション〉であり、〈体験〉を支える〈共同体〉のもはや限定し得ない実質であるが、その〈共同体〉とは、未完了の存在が裸でその有限性をさらし合う純粋な差異の接触としての共同体にほかならない。(p183)


これは難しい文章だが、知による「支配‐被支配」の関係でない、まったく非権力的な関係性として、「共同体」が模索されてるということだろう。
ブランショの論では、これはデュラスの小説『死の病い』における、男(知ろうとする者)と女(知の対象にされようとする者)との関係の不可能性、その不可能性において一瞬成立する「恋人たちの共同体」として語られていることだ。
知による支配の断念だけが、対等な関係の可能性を開くという考えが、ここに示唆されてると思うのである。

*1:ブランショレヴィナスの思想から非常に強い影響を受けている。

*2:また、この「民衆」の語られ方には、『僕は政治的には無智な一国民として事変に処した。黙つて処した。』という時の小林秀雄の「国民」像や、吉本隆明の「大衆の原像」といったものに、似通ったものを感じる。