6月5日の大阪のサウンドデモの感想

6月5日の大阪のサウンドデモ、主催者、参加者のみなさん、お疲れさまでした。
以下のサイトにも映像がアップされてるようですが、一応感想めいたものを書いておくことにします。
http://osaka-antinukes.tumblr.com/


のっけからなんだけど、率直に言って、一番強い印象は、警察のひどい警備。
不当逮捕のあった5月7日の東京のデモの様子を詳しく聞いてたので、この日のサウンドデモ(以前からサウンドデモは警察の目の敵にされてるらしいので)は一応予測はしてたんだけど、それにしても嫌がらせとしか思えない警備の仕方だった。
三つに分けられた隊列の間を出来るだけ離そうとしたり(百メートルぐらい離されて前の隊が見えなくなることもあった)、そうかと思うと各隊列が延びすぎないように、隙間を作らないように強制的に急がせたり、両側から挟みこんでプレッシャーをかけたり、まあやりたい放題やられた感じです。徹底的に圧迫を加え、コントロールしようとするんだよね。
スピーカーで耳元でガンガン怒鳴って言うことをきかせようとしたり、何度も背中に手を当てて(それでも慎重に力は加えずに)、先を急がせようとする、それを繰り返し繰り返しやってくるのは、こちらを怒らせてあわよくば不当逮捕に持っていこうという目論見があるんじゃないかと思わせる。
ひどい話です。情けないよね。人が人に言うことを聞かせようとして、ああいう態度をとるというのは、何か意図(不当逮捕とか)があってあえてやってるとでも思わなければ、本当に情けなくてやりきれない。
年配のおじさんの警官が、部下の若い警官に命じてそれをさせてるわけだし、若い警官も、その暴力的なやりとりに没入することでしか自分を保てないんじゃないか、とも思う(ちょっと府知事みたいな感じもするけどな。)。


こういう場合、そういう不当な圧力に対して、どう抵抗するかということも、たしかに大事だと思う。
ただ、本当は、そういうことをするためにわざわざデモに来てるわけじゃない、と思っちゃうんだよなあ。
その、自分にとっては意味の薄いことを、あえてやらされてるアホらしさというか。
いや、抵抗そのものは、とても大事だと思うけど、そもそもそれが大事なこととして意味を持たされてる状況そのものが理不尽なわけで。


絡んでくる相手に、あえて不当逮捕の口実を与えたりするのも馬鹿らしいし、何より警官相手にエネルギーを使うことも馬鹿馬鹿しくなってしまって、途中からは意地を張らずに適当に言うことを聞く振りをしながら歩いてた。
実際、途中に坂のある長いデモコースは、ちょっと疲れたしね。あらためて歳も実感。






デモ自体は、それでも盛り上がってたと思う。たしかに解放を感じる瞬間もあったことは言っておきたい。
でも今思うのは、「楽しいデモ」とか「和気あいあいとしたデモ」というのが、理想であるとは思うけど、残念ながら特に日本では、その可否を決めるのは、ひとえに警察(権力)の側だ。
普通の意味での「楽しいデモ」をやろうと思ったら、警察の論理に相当に合わさねばならないわけであり、そこではもう「楽しい」という言葉の内実が変えられてしまってることになる。
それは、自分たちが本当にやりたいデモでは、もはやないだろう。


このような、権力の論理によって「楽しさ」を規定されてしまうことの窮屈さに抗って、ぼくたちはデモをするわけだ。
その窮屈さ、権力により定められた感情や感覚のなかで生きることの、息苦しさから逃れるために。
そういう息苦しさを受け容れてることが、原発というものの存在を許してきたのだし、また原発によって維持される日常の「豊かさ」のなかで、それらの感覚や感情を自分の生来の感情であるかのように思い込まされてもきたのだから。
その意味で、こういうデモのような行動って、それ自体が反原発的なんだと思う。


デモの現場に行って、今回のような警察による嫌がらせや辱しめを受け、それに対する抵抗を試みたり、さまざまな自分(や他人)の感情の動きを体験することは、それ自体が、権力に規定されない情動の力に触れる契機であると思う。
そういう権力との露骨なぶつかりの中で、ぼくたちは、「連帯」というのとは少し違うが、少なくとも同じ(暴力的な)場のなかに、共に曝け出されて置かれているという現実に気づく。
そしてそれは、実はぼくたちの日常の本当の姿に通じるものでもある。
デモの体験は、ぼくたちが日常の生活において置かれている、いわば「権力による被曝」という事実、そのさなかで他人と(葛藤をはらみながらも)隣り合って生きているという現実を、実感し、意識化できる数少ない機会でもあるのだ。
デモという行為のなかで、権力の支配と暴力を、当たり前のことのように甘受させられている自分たちの、作り上げられ辱められた外皮の下の、生の可能性に気づくのである。


そこから、様々なことが始められるはずだ。