ここに本質がある

他にしないといけないことがあるのだが、あまりにひどい話なので、書いておこうと思う。

郡山市のコリアンスクールが危機に  日本人のための避難所も設営したのに、校庭汚染除去も支援なし
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201106241409555


念のために書くけど、単に「被ばくを防ぐための支援は普遍的になされるべきであるのに、こんなことでまで差別されるのはひどい」という話ではないですよ。
元々こういう差別がまかり通る非人間的な社会だったから、いま原発事故についても、推進だの維持だのという非人間的な論が主流になってるということです。


つまり、原発事故が起きようが起きまいが、朝鮮学校は国家や社会による排除と差別の暴力にさらされてきたわけであり、事故以後は、その暴力に「放射能」(また、震災のによる被災)という新たな内実が付け加わっただけだと言える。
同様のことは、福島など原発のある地域に住む人たちについても言える。この人たちは、これまでもずっと国家や社会によって、排除の対象とされ、見えない存在のようにされてきたのだ。平時や事故発生時における危険という、生の重要な現実が、否認されてきたからである。
この人たちは、その存在を、社会全体の論理のために常に軽視されてきた。
そしてこうしたことが、原発をめぐる問題の、まったく本質なのだ。


この社会のあり方を変えることなしには、原発の問題の解決は、決して現実的なものにならない。一過性で終ってしまう。
そしてそのあり方を変えるための糸口としてこそ、「脱原発」という課題は今われわれの前にあるのである。