東京都知事選について

東京都知事選について、「ひどい候補者ばかり名前があがって、最悪だ」という声を聞く。
そのことが、日本の民主主義の現状のひどさを示している、と評論する声も多い。
ぼくは、それはちょっと違うと思う。


どんなひどい人間でも、法の規定に反さない限り選挙に立ってしまうのは、民主制をとっているからには、基本的に仕方がない。
民主主義というのは、そういう致命的な欠点をもっているのだ。
だから他の道をとることも可能だが、ぼくは無根拠に民主制の方を選ぶ。


フランスでも、極右政党の党首が大統領選に出たことはあった。
日本と違うのは、有権者が彼を当選させないために団結した、ということである。
サルコジベルルスコーニやブッシュのようなひどい人間が指導者になることもある。
日本と違うのは、彼らに反対するデモが、しばしば大都市の街路を埋め尽くす、ということである。


都知事選をめぐる状況がひどいのは、「ひどい候補者ばかり出ている」ことによるのではない。
本当に最悪なのは、石原都知事の度重なる差別発言に怒り、「反石原」を標榜してきたはずの人たちが、自分たちが納得できる候補者を一人も立てられないでいること、また自分が投票しようと思う候補者を見出せずに居るということの方である。


今回の選挙に、石原が出るかどうかは、大きな問題ではない。
「反石原」を掲げ、思ってきた人たちが納得のいく投票行動を行い、それが何らかの形として示されなければ、誰が当選しようと、この選挙は「反石原」陣営の「不戦敗」なのだ。
それなのに、それに見合う候補者が立てられずにいる。


ぼくが東京都の有権者なら、共産党の小池氏に投票する。
「反石原」に見合う他の候補者が立っていない現状で、この選択肢をとらない人の心情がよく分からない。
その人たちにとっては、「反石原」ということより、「共産党が嫌い」ということの方が重大な要件になってるのだろうか?
それはぼくには、あまりに党派的な発想のように思える(第一、立候補してるのは政党ではなく個人である)。
今後、小池氏以外に、より妥当な候補者が出てくれば、問題は解消されるようなものだが、現時点において、判断を決する重大さの優先順位が狂ってるように思えることが、なんとも気になるのだ。
つまり、最善でなくても、現状のなかで実行しうると思える選択肢があるのに、党派的なこと(ぼくには、無党派的な意見も、そのように見える)を理由にして、実行すること(投票において意志表示すること)が回避されてしまう。
これは一種の、政治的無力化の効果ではないだろうか?


ぼくが無知なだけで、小池氏では「反石原」になりえない、という見解もきっとあるのだろう。
だが繰り返すが、この選挙で何が重要かと言ったら、「反石原」であって、政党云々ではないというのが、ぼくの考えだ。
自分が嫌いな政党の候補者であっても、現実に立候補してる人のなかで最善と思える人が居るのなら、その人にあえて投票するという「手を汚す」覚悟を持たなければ、選挙による政治の場では、この社会を覆う「石原的なもの」への抵抗など出来ないはずだと、ぼくは思う。


そういう政治のあり方が嫌だという人、政党や選挙とは関係のない場で、政治行動を行いたい、という人たちも、きっとあるだろう。
その人たちには、ここでは何も言うことはない。
だが、選挙が政治的な意志を示すための大事な手段であると考えている人たちには、この現状のなかでどのような行動をとるのが最も有効かということを、よく考えてもらいたい。


ソンタグが言っているのだが、メディアがジェノサイドについて伝えることのなかで、最悪のものは、「意志の不在」だという。『この苦しみを終わらせようといういっさいの意志の不在』が伝えられることが、報道の受け手に最悪の効果をもたらす、というのである。*1
セルビア軍の砲撃にさらされながら国際社会の介入を受けられずに孤立していたサラエヴォで記した言葉だ。
だが、ジェノサイドの行われている都市は、かつてのサラエヴォや今のリビアの町だけだろうか。
ぼくは、東京や日本の大都市でこそ、ジェノサイドや差別に反対する明確な意志が、示されねばならないと思う。

*1:雑誌『批評空間』第二期第1号掲載「サラエヴォゴドーを待ちながら」木幡和枝訳より