「世紀と赦し」

先日、古本屋で雑誌『現代思想』のバックナンバー、2000年11月号、「和解の政治学」と題された特集の号を見かけて買った。


ちょうど「女性国際戦犯法廷」が準備されてた頃のもので、鵜飼哲高橋哲哉両氏による同名の討議が、目玉になっている。
そして、この両氏の師にあたるジャック・デリダへのインタビュー「世紀と赦し」が、鵜飼氏の訳で載っているのだが、その一節が、たいへん印象的だったので、感想を書いておきたい。
それは、次のようなデリダの言葉だ。

他方では、「和解の実際的プロセス」という表現を使われたときあなたが指示されたことが「政治」と呼ばれるものなら、その場合には、これらの政治的緊急性を真剣に受け取りつつも、私はまたこうも考えるのです。政治的なものによって、とりわけ市民権によって、ある国民国家への規約上の帰属によって、私たちはすっかり定義されているわけではないと。一切の制度、一切の権力、一切の法律=政治的審級を超過する何ごとかが、心情[coeur]に、あるいは理性に到来することを、とりわけ「赦し」が問題である場合には、受け入れるべきではないでしょうか?自分自身が、近親者が、自分の世代あるいは先行の世代において、最悪の事態の犠牲者である人が、裁判が行われることを、罪人が出頭し、法廷によって裁かれ断罪されることを要求し―それでいながら、その心情では、赦しているということを想像することができます。(p105)


ぼくは、この部分をはじめに読んだとき、特に最後のセンテンスにだけ注目し、上段の「国民国家」や「政治」「制度」といったこととの関連がよくつかめなかった。
だが、後になって人から示唆されて、その関連性に気がついた。
しかし、ともかくこの最後のセンテンスを中心にして、自分が感じたことを書いてみよう。


被害を受けた側に居る人(「近親者」とあるように、ここでは集団的な単位をも考えられている)が、罪人が裁かれ断罪されることを要求しながら、同時に「心情では、赦している」ということを想像できる、という、このデリダの言葉。
ここからぼくが感じることは、「赦し」を阻むのは誰かということ、言い換えれば、「赦し」という出来事の実現にもっぱら責任を負うのは誰であるか、ということだ。


ふつう、「甲が乙を許す(赦す)」というとき、その決定権、カギは甲の側、つまり被害者である「許す側」が握っていると考えられがちである。
そこで、「赦し」が実現しないと思われる場合、その責任は、被害者側のこだわりや、要求の過度の厳しさにあるかのように言われたり、思われたりすることさえある。それはとりわけ、「和解」(デリダは、この概念を「赦し」に関わらせることを拒むのだが)が目的化され、「あるべきこと」のように考えられる場合にも、起こりうることだろう。
だが、実際にはこのカギを握っているのは、もっぱら「罪人」の側、加害的な立場にある者ではないだろうか。


裁かれ断罪されることへの要求の重さを、法制度の次元においてしか受けとめることができず、「心情[coeur]」の次元を見出すことができずに、その要求の苛烈さをあたかも己の(自分たちの)存在に対する否定であるかのようにしか感受できない、その加害者の側のこわばり、言い換えれば、法制度的・国家的なものとの同一化こそが、「赦し」という出来事の実現を不可能にしているのではないか。
このデリダの言葉は、ぼくには、そのような意味に思える。


つまり、ここで問われているのは、被害を受けてきた人たちの告発や断罪を、「心情[coeur]」(このフランス語の単語は、辞書を引くと、心や心臓という意味が書いてある)の次元において受けとめられないほどに、非人間的な(仮に、そう呼んでおく)、あるいは法制度や国家・権力の論理に同化してしまった、われわれ(加害的な者たち)のこの社会だと考えられる。
「心情[coeur]」の次元から、これほど遠く離れてしまっては、もはや「赦し」ということについて考えを及ぼすことさえ困難だ。
ぼくたちは、「赦し」の可能性の地平から、はるかに遠く隔たり、見放されてしまっている。


デリダは、政治の次元、国民国家や制度の次元を超過する「何ごとか」の到来を、受け入れるべきではないか、と語る。
このとき、ヨーロッパにおける移民や難民の問題が、その念頭にあることはたしかだろう。
そのこともまた、われわれの「心情[coeur]」の次元、というものに関わっていると思う。
それは、この現実の制度の外側にある、われわれの(所有するわけではない)生の可能性の問題である。


誰が、何を「赦す」のか。
もう一度、そう問うことが必要だろう。
「赦し」は、国家や、それと同一化した私たちのためにもたらされるわけではない。そうデリダは言っているのだ。
「赦し」の可能性に見放され、「心情[coeur]」の次元から隔てられた、虚ろな部屋のなかに自分を幽閉しているのは、私たち自身だ。
扉は、私たちの前にあり、その向こうには、私たちの手でそれが開かれるのを待ち続けている、数知れない生者と死者が居るはずである。