使い捨てにする人・される人

なにせ「タカ派」というイメージが強いので個人的には「橋下知事」は誕生して欲しくないし、立候補をめぐるいきさつも無様という印象はぬぐえないが、自民党府議などが今回のドタバタ劇に「なめられた」みたいに怒ってるというのは、筋違いだ。
もともと、そういう候補者の選び方、推し立て方、使い方をしてるのは政党の方なんだから。
自・民・公・マスコミ一丸となった「太田おろし」の経緯をみても、そのことははっきりしてる。


一般選挙でも党首の選出に関しても、候補に立てる人間を「使い捨て」の道具としか考えない政党や政治家たち自身によって牛耳られているというのが、今の日本の政治の世界だろう。
年金記録に関する「公約問題」にしても、すでに用済みとなった前首相一人の責任ということにされてしまいかねない(もちろん、この人の責任は重大だが、一人のせいにして済むことなど一つもない。)。
その全体の歪み、政治の空洞化みたいなものを(自己)批判せずに、その都度都合よく担がれる側の軽薄さだけを政治家が非難するのは茶番である。


そうした歪みや空洞化が生じる根本は、今の政治の世界のなかでは有権者や生活してる人間みんなが、生活してる一人一人の人間が「使い捨て」可能な存在としか考えられてないことだろう。
「使い捨て」可能な有権者の代表だから、「使い捨て」の知事や党首や議員であっても問題ないという感覚も出てくる。


要するに、政治家と有権者・生活者の間、政治の場における人間同士の信頼関係というものが、根底において成り立っていない。その土台の空虚さのうえで、選挙や議会という形だけのゲームが繰り広げられている(いや、その形さえ危ういのだが)。
ここには、主役であるはずの(使い捨てにされえない)人間というものが欠けているのだ。



そういう今の政治(社会)の論理を、担がれるタレントや若手候補自身も体で感じてないはずはない。
「使い捨て」にされそうな自民党の「チルドレン」議員などは、労働組合でも作って執行部とたたかえばいい、と思うほどだ。
小泉や武部の策謀に乗せられて与党の大勝利を実現させた思慮のない人たちで、まずこの人たち自身が選挙民や納税者全体のことをどう考えてるのか、問いただしたいような議員がほとんどだが、かといって「担いだ側」(使い捨てにする側)の責任が問われなくていいことにはなるまい。
自分がどう扱われていたかに気付いた議員たちの何人かが、ほんとうに政治の場で何を守っていくべきかに気がつく、これはいい機会かもしれないのだ。


だがそれでも、自分を使い捨て可能な駒として扱う枠組みに、反旗をひるがえそうとする人は少ない。
これは、ぼくたち有権者の側も同じであろう。
考えてみると、たとえば選挙民が造反して無党派や少数政党の首長を誕生させてもすぐに引き降ろされることを示して、人々に無力感を植え付けるような企みも大政党は公然とやっている。
それが分かっていて、なおかつ少数政党の候補者に入れるほどには、有権者は少数政党を信じてるわけでもない(ここは、少数政党の側にも考えるべき点があろう。)。
仕方ないので棄権するか、マシな候補に投票する。それが「民意」であるかのように言われ、手前勝手な政策が進められる。
こういう状況だと立候補する側も、現状に疑問を持ちながらも、何かを変えていくための現実的な方途として、自分を使い捨てにするようなシステムにコミットしていかざるをえない、ということもあるだろう。
それにしても、その疑問を持ち続けられるかどうかが、ほんとうに問われるべきことだ。


選ばれて政治家になる者にせよ、それを選ぶ側にせよ、人が人を都合よく利用し、使い捨てて恥じないような社会・政治のあり方、自分が属する組織のあり方を強く自覚し、それを内側から変えていくような人たちが増えていくことにしか希望はない。
その希望の種が、どこに落ちているのかは誰にも分かるまい。
選挙や普段の生活のなかでの、切実な意見のぶつかりあい、重なり合いだけが、空虚さを埋め、土台の上に種を芽吹かせるはずである。