飼いならされた自由

前回の『オルタ』の対談に関する記事への補足。
http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20090911/p1


この対談のなかで小川有美は、国家と社会との距離が極めて近い北欧の国々のあり方を、「社会に近い国家」と呼びながら、次のように説明している。

この社会と国家の近い関係は、ラディカルな市民社会論の立場からは、「北欧の社会運動や環境運動は飼いならされたものだ」といった批判が向けられます。逆に北欧の組合や運動の側は、自分たちが組織率が高く、国家の意思決定にも財政にも参画できている、高度で活発な市民社会だと自負していたりする。(p9)


この「社会」運動のあり方の問題、国家や行政に対立するのか、参画するのかということは、常に難しいところだろうと思う。
一方、小川は別の箇所で、北欧と比較しながら日本社会について、

日本には市民的な反公務員・反増税感情があり、アナキズムの伝統もあり、北欧とは全く異なる国家観を形成しているとは思います。大戦の歴史的経験もあって、それは故なきことではない。(p15)


という風に述べてもおり、ここでは日本と北欧の社会のあり方の違いのひとつが明瞭に述べられていると考えられる。
たしかに社会運動に関して言うと、政府や行政への参画・連携を重視する方向に対しては、日本でも「飼いならされる」ことを嫌った批判が起きる場合が多いようだ。
それを指して、社会と国家の距離について、「北欧とは異なる国家観(社会観)」を日本の社会に見ることも可能かもしれない。
国家を嫌悪すると共に無批判に「社会(ソーシャルなもの)」を信奉する傾向があるということであり、この日本人(社会)の反国家(嫌国家)主義的な気分を指して「アナキズムの伝統」という言葉が使われてるのだろうと思う。


だが、こうしたことについて、よく考えてみる必要がある。
ぼくが思うには、日本社会の場合、非常に根深くあるのは、アナキズムというよりも、国家を頼りにしない代わりに、国家に干渉されることを嫌うといった人生哲学のようなものではないだろうか。これは、ぼくたちの親(特に父親だが)ぐらいの世代、戦中・戦後に青春期を過ごした世代のなかにも強くあったものだと思う。
それを、日本流の自由主義個人主義的理想という風にもいえる。国家に頼らない、独立した自由な生き方。
高齢の野宿の人のなかに、生活保護を受けることを嫌う人が多いと聞くが、そうしたところにあらわれるものである。
ぼく自身も、そういうものを生き方の理想像のように、密かに思って生きてきたところがある。
だが考えると、それは自分や他人の死を是認する思想にもなりかねないものである。


問題は、この(国家からの)自由を求める日本的な思想、美学が、国家や制度にとって都合のよいものでもありうる、ということだ。
それは、自分や他人が国家や行政に救済されることの否定だが、それ以前に、国家や行政の決定に自分たちが参画していくことへの拒否、辞退でもある。
いわば政治の場から撤退して、全ての決定を「お上」に委ねることと引き換えに、個人は国家に干渉されない自由を得、また黙して死んでいく自由を得る。
つまりこの自由は、全ての政治的決定と自他の生死についての、権力への白紙委任を代価として得られる「脱政治的」な自由なのだ。
だからこの自由主義こそが、「国家に飼いならされている」とも言えるのである。こうした人生観は、日本の国家と社会の封建的なあり方に、よく合致しているものだったともいえよう。
結局のところ、ここには「国家」に対立しながら「社会」(連帯)を信奉するような思想はまったくないのであり、あるのは「国家」とそれに合致した「社会」に無意識に適応して、国境や階級・人種などの制度的な枠組みを横断するような個人間の社会的連帯に背を向け、微温的な孤独のなかでお仕着せの自由を謳歌しつつ、他者の抑圧・排除に加担しながら生き、そして死んでいく、そういう虚ろな人生だけだ。


こうした生き方を選択している限り、その人は日本の国家のみならず、社会においても疎外されずに済む、少なくとも疎外を意識せずに済んできたのだ。
そこでは国家と社会が、政治的な不参加、不参画(少なくとも不活性)をこそ、個人に要請していたからである。
日本の文脈において問われるべきなのは、むしろこうした形の「国家=社会」の共犯性なのであり、それに加担する(適応する)ことによって、われわれは何を(誰を)排除してきたのか、ということだろう。




現在日本では、民主党を中心とした連立政権が誕生しようとしており、一方では裁判員制度をはじめとして、市民参画型の社会制度への転換が(頭ごなしに)始動しつつある。
たしかに、こうした動きは、人々を政治のなかへ、自分たちの意志による国家や社会の形成の方へと向わせるもののように思える。
だが大変気がかりなのは、こうした変化への順応の早さ、「良き国民(市民)」であることへの適応の早さである。それはかつての「日本型自由主義イデオロギーの内面化の早さを思わせるものではないだろうか。
『オルタ』の対談でも、同一性を希求する「ソーシャルなもの」の危うさが語られていたと思うが、「国家の論理」「市民の論理」に反すると見なされる存在の排除への加担を拒むような力が、われわれのなかに育まれているといえるだろうか?


肝心なのは、「国家=社会」の封建的な一元性、同一性を求める「ソーシャルなもの」の力のなかで、われわれが新たな形で「反社会的(=反国家的)」なものの排除と抹殺に手を染めることの危険なのだ。
国家と社会の二項対立は虚構でしかない。現実に存在するのは、社会と国家の信任を受けた「市民」による「反社会的」なものの排除の危険である。
この社会のひとつの変動期のなかで、われわれは「国家」と「社会」に対して、真に抵抗し働きかけるもの、「国家」と「社会」の名において排除されたり迫害されるものの側に立てるだろうか。
そうなるのでない限り、何かが「変わった」などと、決して本当には言えないはずなのである。