否認と冷笑

いくらなんでも、この論旨はおかしい。


風知草:「田母神支持58%」考=専門編集委員山田孝男(毎日新聞)
http://mainichi.jp/select/seiji/fuchisou/news/20081117ddm002070072000c.html

折も折、世界の軍事・経済を牛耳ってきた米国のパワーが落ち、本能的に対米依存脱却=自立の必要を感得した民衆が、理屈を度外視して田母神論文に反応しているというのが私の現状理解である。


筆者は、田母神論文を、「実証性がない」という点で否定しているようである。
そして、筆者のいう「民衆」が、その実証性のなさを度外視して論文の主張に支持を表明するのは、「民衆」が「自立の必要」を感得しているからだ、というのである。


だが、「民衆」がこのような「感得」を実感として持つということ自体が、そもそもこの社会では歴史が生きたものとして捉えられてこなかったことの帰結ではないのか?
歴史の事実をどのように捉えるかということは、過去から現在に至る自国の政策をどのように展開するかということに関わり、また同時に近隣諸国がどのように日本に対処するか(日本をどう見ているか)ということにも関わる根本的な事柄だ。そこが踏まえられていない安保や国防についての議論は、絵空事なのである。
筆者のいう「民衆」が、実証性など度外視して自分たちの現在の実感に適合する(都合がいい)ような歴史認識に飛びついているのだとしたら(筆者が言っているのは、そういうことである)、それは「歴史」がそもそも現在(の私、私たち)にとって、さしたる意味を持つものとは考えられてはいないということである。
田母神論文自体も、そこに最大の問題があるのだ。


外交や安全保障に関わるものとしての「歴史」とは、自分の国や国民が、他国・他地域の人々に対して何をしたか、されたか、どのように関わったか、ということ以外ではないだろう。
そのことを参照せずに、それとはまったく別次元の、歴史などによって束縛されないものとして、現在の「自立の必要」なり何なりが考えられ主張されているのだとしたら、その社会は「歴史」を欠いているだけでなく、今現在においても「他人」を欠いているのであり、根本的に排外主義的な社会だといえる。
そこでなされる議論が、9条の改変(改憲)だの軍備の増強という、自他の生命を否定する方向に向かうのは、必定なのである。


田母神論文への支持の声が強いという現象について、言われるべきことは、他国との過去と現在の関わりの軽視を示す、このような「歴史」の意味の希薄化への批判であり、(歴史から切り離された)現在の「実感」という抽象物を根拠にして改憲や軍備の強化を論じ、そのために(他人との関わりの蓄積としての)史実を道具のように使ってねじまげてしまう、非歴史的・非人間的な社会の風潮を非難することのはずである。
ところが、山田のこの文章では、「実証性」や「歴史論争」を二の次のものとするこのような社会の風潮が、「自立の必要」の感得にもとづく国防論議の切実さの証拠として尊重されているのである。


結局、筆者のような人にとっては、歴史の事実のいかんや、歴史観などは、それこそ二次的な意義しかもたないのであろう。
安保・国防政策の見直しを主張する自分の「実感」や考えが全てで、「歴史」という他人との関わりの重さ、厚みは、その主観的な願望(プラン)を実現していくためのアリバイのような意味しか持たないのだろう*1
ここで考えられる「実証性」や、客観的な正しさには、元来それらが奉仕するものであるべき、自他の生命や人生の価値についての意識が欠けているのだと思う。


田母神論文は、たしかに自分の現在の主張を正当化するために、意図的にか無意識にか、史実への否認、歴史への修正を行おうとしたものだといえるかもしれない。これはなるほど、人間や生命への否定に結びつく態度である。
この人の発言を支持する多くの人たちにも、同じ批判が当てはまるだろう*2
だが、そこでは「独善的な歴史解釈は、軍備・国力の増強のような主張と結びついている」という見やすい事実が、いわば率直に明かされている。それは、ここでは自分の主張の根拠として、誤った(独善的な)仕方ではあっても、歴史を参照するということの必要性が踏まえられているためだ。
つまり、ここでは歴史は、じつは道具としてではあるが、まだしもその人の主体的な考えや行為と連関するものと見なされているのである。ここでは歴史の事実に対する否認のなかに、他人の存在に対するなんらかの意識(関心)が働いているとも言えよう。


ところが、山田の論においては、今生きて考え発言している「私」と、他人との関わりの蓄積・記憶としての「歴史」との、このような連関そのものが、いわば冷笑的に否定され、断ち切られている。
山田の言っていることを一言で言うなら、「(村山談話に適合するような)妥当な歴史認識を持ちながら、国防の自立のための現実的な議論を深めていこう」ということだろう。
だが、このように言われることが可能なのは、ここでは「歴史」というものが、現在の自分の考えや「実感」の自明さを脅かさないようなものとして、あらかじめ現在から切断されて無害化され、いわばその現実性を切り下げられているからである。
要するに、「歴史」を自分の生や考えと無縁な机上のものとあらかじめ定めているから、どんな歴史認識も、自分の目的(改憲や国防の強化)に適応するように選択することが可能なのである。


田母神論文的なものと、山田の文章に示されているもの。どちらの態度が、より危険なものか。
もちろん、どちらも危険であろう。
だがぼくには、山田の論調の方が、より警戒するべきものであると思える。

*1:この実現の最終目的は、歴史(他人)の完全な否認、ということかもしれない。

*2:もちろん、この発言に反対したからといって、直ちに「人間や生命」に否定的でない、とはいえないが。