認められたい日本人

李忠成選手の日本国籍取得や、「李」という名前でプレーを行っているということなどについては、本人の選択なので、ぼくには何も言いようがない。ぼく自身は、こういう種類の選択を、これまでの人生で行ったことも強いられたこともないからだ。


ただ、国籍の選択であるとか、民族名を名乗って仕事や生活を続けるという選択において、特定の人たちに、過剰で不当な現実的・心理的負担をかけることをやめない、この社会と国家を、その成人国民として腹立たしくも恥ずかしくも思う、ということだけである。
この記事のなかでは、

『李』という名前で出ても日本代表で活躍できること、希望を見せられることをゴールという結果で示したかったんです。


という李選手の言葉が紹介されているが、どんな名前で出ても代表選手として活躍でき、希望を見出せたり見せられたりするというようなことは、本来当たり前のことであり、そんな当たり前の社会をぼくたちが作ってこれなかったために、彼の選択が「当たり前」でない重苦しさを含むものになってしまったことを、申し訳なく思うのだ。


李選手の活躍を見て、「これで彼も日本人として認められる」というような物言いを目にする。
新聞やテレビの記事も、「日本人として」ということを強調する報道ばかりだ。
http://www.asahi.com/sports/update/0130/TKY201101300199.html


きっと彼が「李」という名前を使い、在日コリアンという民族的な出自を明確にしながら「日本代表」として活躍しているということ、そういう存在の選手が最大の桧舞台で決定的な活躍をしたために、その事実が否認しようのないものになったことが、不安で、居心地が悪くて仕方がないのであろう。
この国の歴史的な経緯を踏まえれば、朝鮮人が日本風の名前を用いず、民族名を公然と使うということには、あくまで抑圧者にとってはだが、特別な意味合いがある*1
それは少なくとも、(その使用の事実がもたらす不安や居心地の悪さを通して)差別的な社会のあり方の露呈、日本人自身へのそのつき付けということを、否応なしに含んでしまうのである。
もちろん、李選手がそれを意図したということではない。こんな「当たり前」のことに、そういう重苦しい政治的な意味合いを背負わせているのは、他ならぬ日本社会・国家の側なのだ。


朝鮮人の日本代表選手(日本国民)が居ても、何民族の日本代表選手(日本国民)が居ても、本人がそういう自覚を持って生きているのであれば、いっこうにかまわない。
国民国家というなら、本来はそうあるべきだ。
だが、本人が日本国籍を取得し、日本代表として立派なプレーをしても、周囲の社会は、どこまでも「日本人として」とか、「日本人になる」といった抽象的なことにこだわる。
それは、自分たちの(共同的な)存在に自信を持てない、多くの日本国民の不安な心情のあらわれだろう。


「これで彼も日本人として認められる」という風に言う人は、本心では自分たちの方が、在日朝鮮人である李選手に認めてもらいたがっているのだ。
彼が完全に「日本人である自分」を示すことによって、自分たちが信じてきた日本社会のあり方を彼(朝鮮人)に承認してもらい、誰からも非難されたり拒まれたりすることのないものとして、「日本人」という同一性を享受したいのである。
自分たちを最も承認して(許して)くれないだろうと思われる他者から承認され、そのことで自分たちの安心を獲得したいがために、果てしもなく(内面的な)同化を強要していく日本の社会。


だが、この安心が得られることはないだろう。
自分たちが他人に加えている暴力の事実に、ぼくたちは内心では気づいているからだ。だからこそ、排除し暴力を加えていると思われる当の相手の存在が気にかかる。気にかかるから、同化の強要や、罵倒・排斥や、さまざまな働きかけを行おうとする。DVに似た構造だ。
つまり不安の原因は、ぼくたち(の社会)自身の体質の方にあるのである。
自分たち自身の手で、自分たちの国と社会の差別的なあり方を改めていく努力をしない限り、ぼくたちはいつまでも、ぼくたちを本当に承認してくれる他人に、出会い損ね続けるだろう。

*1:朝鮮学校の無償化の問題など、この国の差別的体質があからさまとなった現在、たかをくくってそのことを否定できる人はいないだろう。