『「朱子語類」抄』を読んでいると、こんなことが書いてあった。
- 作者: 三浦國雄
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2008/10/10
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三浦國雄による注釈として。
人の形体の内部には絶えず気が発生しており、それが呼気として外へ排出される。気が発生するのは質としての形体が希薄化するためであろう。ここに現われているのは、程伊川から生生の思想である。伊川は天地の生成の働きを、人間の呼吸にたとえて次のようにいう、「・・・・天地の造化作用はおのずから生生して窮まらぬ。・・・・」(p299)
以前、岩波文庫の『童子問』(伊藤仁斎)を読んでいたとき、「生生の思想」というようなことが書いてあって、それが何処から来たものか分からなかった。
日本の土着的な思想のように思っていたのだが、実は朱子の先行者である程伊川から、朱子が受け継いだ同じものを、仁斎は自分の思想として語っていたのだ。もちろん、程伊川、朱子の影響下に獲得した思想だったろう。
ずいぶん時間がかかったが、やっとそのことが分かった。
自然に重なるものとして「呼気」を語っているところは、古代ギリシャ自然哲学やプラトンの「プシュケー」(ハイデッガーが「霊気的」と呼んだものでもある)を思い出させるが、ただ違いは、朱子の場合には、「気」は外から入ってくるのではなく、逆に内から排出されるものと捉えられてるところであろうか?
三浦国雄によると、この「生生の思想」と呼ぶべき朱子の人間学は、朱子自身の宇宙論との間に、重大な矛盾をはらんでいるという。
これは、前者が、無から(自己生成的に)生生して窮まらないという発想であるのに対して、後者が、陰陽二気の総体は増減しないというエントロピー的な論理になっていることを指してるのだろうか?
いまもうひとつ読んでいるのは、田中美知太郎『哲学談義とその逸脱』。
哲学談義とその逸脱;プラトン「饗宴」への招待;ヨーロッパの心 (田中美知太郎全集)
- 作者: 田中美知太郎
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 1988/05
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朱子は、読書はのんびりやっていたのではダメで、たゆまず急いで読まないとものにならない、という風に言ってるそうだが、こちらの本もなかなか前に進まない。
著者の晩年、80年代中頃の本だが、これまでのところ、70年ごろから目立った傾向になった、反知性主義的な風潮(「感性」の賛美など)に警鐘を鳴らした本のようにも読める。
プラトンはポイエーテース(作家)を巫女と同じようなものだと見た。かれらは自分自身の考えたことを語るのではなくて、一種の神がかりにかかって、自分には分からないことを口走っているにすぎないのだとした。かれらもまたカナリアと同じように、時代の空気を吸って何かを感じ、それを言葉に出して語るかも知れない。それは時代の何かを知らせる合図になるかも知れない。しかしかれら自身はそれを知らないのである。かれらが正気に返り、あらためて合図が何を意味するものであるかを説明しようとするとき、かれらは文学者や詩人とは別のものになっているのではないか。(p60)
政治家になった作家が「作家」のままで、自分の「感性」だけを信じて語り続ければ、(特に日本では)とんでもないことになるということを、今日のわれわれは知っている。
そういうものへの無条件の礼賛が社会を覆い始めていたことへの批判かもしれない。
プラトンは、芸術を社会から排斥しようとした人のように言われて非難されることが多いが、その怒りの矛先については、よく考え直すべきところがあるのではないだろうか?