反論・左翼と倫理性

lmnopqrstuさんから、明快な整理と批判の文章が寄せられましたので、これに答えて反論します。
http://d.hatena.ne.jp/lmnopqrstu/20090329/1238350534


3部構成になっているうち、「2」の部分を全文引いてみます。

 氏が「誤読」を経て現在の立場に至った過程から、「誤読」の立場と、「誤読」を否定して(朝鮮人にも)基本的人権を保障する原則的立場が、それぞれ想定できる。二つの立場は次のようになるだろう。


A : 自己決定権を唱える朝鮮人は、個人に対して集団の論理の優位を主張する朝鮮人である。

B : そのような主張は危険であり、集団の論理の優位性は見逃すべきでない。


A’: 自己決定権を唱える朝鮮人は、個人に対して集団の論理の優位を主張する朝鮮人ではない。

B’: 朝鮮人にも日本人と同じ基本的人権を保障すべきである。


 つまり氏の解釈は A⇒B から A’⇒B’へと変化した。前節でも確認したが、実際氏は、26日の記事「誤読したこと」、27日の記事「またlmnopqrstuさんの質問へのお答え」、28日の記事「前回の記事への補足」から明らかなように、金光翔氏が単にB’を主張していたのに金光翔氏を勝手にAと同一視することで「誤読」していたと(金氏及び自分自身を)解釈した上で、(氏自身も)B’の立場に至るという立論構成をとっているからである。


 だが私の考えでは、A⇒Bも A’⇒B’も共に問題がある。A⇒B と A’⇒B’の対立は、いわば帝国主義宗主国の内輪の論理である。歴史が教えるように日本帝国主義は、朝鮮人社会を破壊し、断片化し、朝鮮人が互いに孤立化して存在するように社会を構築しつつ、朝鮮を統治しつづけたが、この「方法」は、戦後、在日朝鮮人(社会)に対して基本的にそのまま踏襲されている。在日朝鮮人が互いに団結して日本に対して抵抗せざるをえない歴史的現実が確かに存在する以上、在日朝鮮人が日本に対して団結して(集団として)声をあげるとき、そこには十分合理的な根拠が存在すると言いうる。たとえばそれは民族教育(に対して日本がとってきた対応)をみるだけでも自明である。このような歴史的現実を踏まえるならば、A⇒B にも A’⇒B’にも共に瑕疵がある。日本人左翼は、まず左翼であるならば、個人としての在日朝鮮人と集団としての在日朝鮮人の(間に生じる)矛盾に直面して、集団の論理の優位を主張してしまう朝鮮人(のリスク)を批判する前に、まず在日朝鮮人(社会)を破壊し続ける日本人の集団的な生活形式――(被支配民族に対する)戦前以来の植民地主義を止めることが出来ない自分たちの集団的な生のあり方――をまず批判=解体すべきであり、同時に左翼である以上、(左翼が当然踏まえるべき)原則、つまりAであれA’であれ、単にB’を主張すべきである。

たしかに、『在日朝鮮人が日本に対して団結して(集団として)声をあげるとき、そこには十分合理的な根拠が存在する』ということは、ぼくも認めます。
しかし、もし実際にその(団結して声をあげるという)行為によって、ある在日朝鮮人の個人の心理の部分、あるいは個人の生活の部分、そういったところに侵害が及ぶ場合は、それはなるほどその根本的な原因はわれわれ日本社会(日本国民)と日本国家の側にあることは認めるべきであるとはいえ、その(個人の)部分が侵害そのものから守られるべきであること、そのために有効な方法を、強制や不当な介入などの暴力を伴わないよう最大限の注意を払いながら行うべきであることは、論をまたないと考えます。
この場合、そうした「有効な方法」をこうじる(権利でなく)義務は、その人の属性(つまり、日本人であるか、朝鮮人であるか)に関わらず有ります。
ただし、日本人の場合には、こうした個人の部分への侵害が生じている根本の原因が、自分自身を含む日本社会や日本国家にこそあるという事実を忘れてはならないことと、自分の行為(義務の実行)が、不当な介入などの暴力性をはらむ危険を自覚していなければならない、ということだと思います。


これは、「個人」というものに高い価値を置いて、その名の下に「集団」の論理の必要性を貶め、不当な介入を正当化しようとするような物言いではありません。
まして、lmnopqrstuさんがおっしゃられるように、こうした「集団」の論理に拠らねば自分として当たり前に生きていくことさえ出来がたいような状況に在日朝鮮人を追いやっているのは、日本の国家・社会と、他ならぬぼくたち自身であるわけですから、そのようなしたり顔をした「集団」の論理への非難は、盗人猛々しいと言われても仕方がないようなものでありましょう*1
それにも関わらず、ぼくが(在日朝鮮人の)「個人」の部分が「集団」の論理(これを本当に強いているのは、日本社会の側です)によって侵害されることを、何人も非難してこれを守る義務がある、というふうに言うのは、人間の生のなかには「個人」の部分もたしかに存在していて、その部分もやはり不当な暴力にさらされてはならない、という単純な理由からにすぎません。


要するに、目の前に現実に圧迫や暴力にさらされている人がいたら、たとえ介入の暴力を犯す危険があり、また根本的には自分がなすべきことは他にもあるとはいえ、それと同時に、その人を端的に守ったり救ったり、勇気づけたりする義務が人間にはある、というありきたりなことです。


そしてむしろ逆に、このような目の前の暴力にさらされている他人を、どのような方法や危険を冒しても助けたり守ったりする義務がある、非暴力に留まるための細心の注意と共にそれを行うべきであるという単純なことからこそ、自分の国や社会を変えるべきであることの根拠が生じてくるのです。
このような義務、言い換えれば他人をさまざまな不当な暴力から守ろうという気持ち、意識に発するのでないなら、どんな「左翼」性も意味を持ちません。


じつに恥ずかしいことですが、lmnopqrstuさんからの批判を受けるようになるまで、ぼくは植民地支配や植民地主義というものが、なぜ悪であるのか、考えたことがありませんでした。
それが理由をもたない、自明な悪であるということでは、何も批判しないのと同じことになります。


ぼくが考えるに、植民地支配や植民地主義が悪である理由、それは突き詰めれば、それらのことが人間(種を特定する形になりますが、仮にこの言葉を使っておきます)の生命や身体、心、生活、関係、そういったものを回復不能なほどに損なうからだ、つまり言わば人間の生にとっての根本的な暴力とでも呼べるものだからだ、ということであろうと思います。
そして、こうした暴力がなぜ悪であるのかというと、その理由は説明できない。それは、ひとつの価値観であり、倫理的な立場ということになろうと思います。
この立場に、ぼくは立つわけです。


すると、最も重要なこと、そして最終的にはそれだけが重要だといえることは、他人や自分に対する不当な暴力を除去しようと務めることです。
そして、現在の現実の社会においては、この不当な暴力を生み出している最大のものは、たしかにわれわれ多数者、支配的な社会の側の暴力です。
だからこそ、変革によってその除去を目指す「解放」や「革命」といった左翼的行為は、その限りで正当性を持つのです。
しかし、あくまでそれに正当性を与えるのは、人間の生が、この社会の中で現実に不当な暴力を被っているという事実であり、その暴力が取り除かれねばならないという倫理に他なりません。
つまり、守られねばならないものは、人間の生以外のものではない、ということです。


そして、人間の生というものは、またそれが被る暴力は、「解放」や「革命」といった狭義の政治的な事柄によっては、その全ての範囲がカバーできるものではありません。
つまり、そういった左翼的な論理に基づく行動だけでは不十分なものが、この「生に対する暴力の除去」という最終目的には存在するのです。


したがって、ここで日本人を主体として考えれば、自分たちとその社会・国家が行使している巨大な暴力への批判・変革という、言わば「日本人(抑圧者)」という自己の帰属(ポジション)に基づく(狭義の)政治的行動の義務と、そこには還元されない、たとえば集団の圧力や論理によって被害を受けたり苦悩している在日朝鮮人が現実に居る場合には、これを直接的にも何らかの方法で助けたり勇気づけたりするという、人間としての(普遍的・剰余的な)倫理的行動の義務という、ふたつのものが同時に存在することになります。
前者の重要性、不可欠性は言うを待ちませんが、しかし前者だけでは不十分な場合がありうるのです。


無論、この「直接的な倫理的行動」は、細心になされなければなりません。
それが自分たちの行使している巨大な暴力には無自覚なまま、被抑圧者の社会に発生する「暴力」だけを非難することで、権力的な介入を正当化するものになってはいけない。
実際のところ、そうしたいわば「非暴力的な介入」(実際には、まったく暴力的でない、ということは不可能でしょう。)というものの具体例は、なかなか思いつきませんが、さまざまな出来事・状況のなかで何らかの形で傷ついたり苦悩している人たちを救うために行動しておられる方は、実際おられるかもしれない。
いずれにせよ、そうした行動を日本人が行う場合、上記のような自分たちの側の暴力性の自覚と、その変革への努力を同時に行っていなければ信用を得られるはずがなく、したがってさらなる孤立に被害者たちを追い込むものになりかねないことは、心せねばならないでしょう。





ともかく、最も重要なことは、目の前の他人(暴力にさらされている、そのような人が本当に居ると確かに考えられることが前提ですが)を暴力から守るということ以外ではなく、そのためには在日朝鮮人に差別や圧迫を加え続け、「集団」の論理に強く依拠することを強いてさえいる*2日本社会・国家の側を批判し変えていくことは無論大事ですが、同時に(そして、同時にのみ)、集団の力や論理から(それらが不当な侵害を加える場合には)個々の在日朝鮮人の生を守る努力を行う義務が、日本人であるわれわれにもあるはずだと考えます。
ですから、続く「3」のなかのlmnopqrstuさんの次の文章にも、同意できません。

日本人左翼は、「「自己決定権」というものを集団を作り参加する権利というように狭く捉えた上で、その権利の保障(肯定)こそが、在日朝鮮人の生の(権利の)全体を保障する基礎となる、という考え」を批判する暇があったら、他者の解体=支配を止めない自分たちの集団の論理をまず批判=解体すべきである。


ある考え方に誰かある人間の生を不当に制約する要素(つまり暴力性)が含まれていれば、その考え方は批判されねばなりません。
そのことは、そうした歪みの大元を生み出している、批判者自身が属する多数者の社会の(暴力性の)批判を第一としながらも、必要な場合には、それと同時に、被抑圧者の社会に対しても、ただしその暴力性への強い自覚と自制を伴って、行われるべきなのです。
そのことこそが、国家権力による不当な介入(暴力)を防ぐのだと考えます。

*1:それに、言わずもがなですが、「集団による個人への圧迫」は、もちろん在日朝鮮人社会にのみ顕著に見られる傾向などではありません。ただ日本人の場合には、集団への依拠は、どうにも正当化されがたい、という違いがありますが。

*2:「強いられる」ということがなければ、集団の論理への依拠自体は、非難されるべきものではありません。付言すれば、ぼくは「原理主義」という言葉を、こと被抑圧者の集団については、決して一方的な非難の意味で用いたことはないはずです。