個人と組織

ぼくが今回、「総連」という組織の問題にこだわるのには、こういうこともある。
朝鮮総連の場合、たんに在日朝鮮人の団体である以外に、国家(本国)との結びつきがたいへん強いということ、それから「硬直化」ということが言われるように組織の体質に問題があるのではないかということなど、特殊な面があると思うが、一般的にいって、個人と組織、個人の権利と組織や集団の権利・存在との関係をどう考えていくかということは、これから日本の社会でも大きなテーマになっていくのではないかと思う。
つまり、組織や集団の存在というのが、個人が国家のもとで生きるうえで切り離せないような重大な意義を持つということは、これまでは社会のなかのマイノリティー集団にもっぱらあてはまることだったわけだけど、いまはいわば日本国民の大多数がマイノリティ化しつつあるとも考えられるので、そのなかで個人の権利を守るということをかんがえるにあたってそこに組織・集団の権利というものを組入れて考えざるをえなくなってくるんじゃないか。
いわゆる「中間集団」の問題。


あとこれは、きのうのエントリーを書きながら考えていたが、論旨がぼけると思って書かなかったこと。


在日への差別や暴力を非難する言論のなかに、「個人の権利は擁護するが、組織に関しては別」という感覚が、暗黙の前提みたいにあるということを前回書いた。
ぼくは、これは非常に根の深いものだと思う。
この感覚、前提というのは、結局、在日が「組織」や「政治」に関心を示すことは好ましくない、というぼくたちの秘められた感情のあらわれではないか、と思うからだ。


在日の人たちが日本の社会のなかで生きていくうえで、なんらかの組織・団体との関わりをもたなければ、十分な生活が営めなかったということは事実である。
なぜそうだったかというと、在日朝鮮人(いわゆる「在日」の意)という集団が経験してきた歴史的・政治的な経緯というものが理由としてあり、それには日本という国のあり方が密接に関係している。
だから、「組織」や「政治」に関わる存在としての在日と向き合うということは、日本人にとっては、必然的に自分が属する(同一化している)国や組織や共同体のあり方と直面する、というか、それを一度外側から見ざるをえないということを意味する。
つまり、朝鮮人が「政治」を語り、「組織」に関わりをもち、「国家」や「民族」といった集団的な概念を意識して発言するのを耳にすると、日本人はそこにある種の脅威を、少なくとも居心地の悪さを感じるんじゃないかと思う。
在日が受ける被害に関して語られる場合、とくに「個人」を守るということが強調されて、朝鮮総連のような政治的な組織に加えられているバッシングとか攻撃ということがあまり話題にならないのには、背景に「政治的存在としての朝鮮人を意識したくない」という日本人側の欲望があるように思うのだ。
それは突き詰めれば、自分自身が国家や共同体の枠の外にほんとうに出てしまうような「政治的存在」になることを回避したいという欲望だろう。
別の言い方をすると、日本という大きな組織との同一化を脅かすような、別の組織を突きつけられることへの嫌悪。


ぼくは、きのうのエントリーにおいても、とくになんらかの「組織」を擁護しろと言いたかったわけではない。
ただ、「個人」と「組織」を簡単に切り離して考えてしまえるという発想そのものが、じつは非常に政治的なもの、日本という国が要請する「市民」の意識のあり方にかなうようなもので、「在日を迫害から守れ」という正当な言論のなかにも、それが色濃くあるような気がするのだ。
朝鮮総連」に関わる問題が、在日朝鮮人擁護の言論のなかでも一種「例外」のように置かれてしまうということへの危惧の大きな理由は、このへんにある。
政治的な存在としての他者を忌避し、「組織」とは無縁な純粋な「個人」という、自分たちにとって「無害」なイメージのなかに押し込め、それによって自分たちの思考の正当性が、国や共同体が要請し提供する大きな枠(非歴史性や非政治性という名の)と衝突することを相変わらず回避するとき、レイシズムや差別に抗する言論は、十分な力をもてるだろうか?