『<佐藤優現象>批判』をめぐって

前回、金光翔さんのことについて書いたが、その論考『<佐藤優現象>批判』について、ちょっと他の場所でやりとりをした。
http://gskim.blog102.fc2.com/blog-entry-1.html
そのなかで、この論の論調は、左派文化人の批判に集中するあまり「主要な敵」を見失わせるものではないか、といった評を聞いた。
これは、ぼくは違うと思う。
どう違うのかを、書いておかなくてはいけない。

金光翔による批判の意図するところ


ぼくの考えでは、逆に金光翔(以下敬称略)は、あの論考で「主要な敵」を明示しようとしたのだ。
あの論考で示唆されていたように、左翼が変質して(もしくは従来の不十分な主張の延長として)、国家による少数者や弱い立場の人の排除、また戦争の遂行に加担するような姿勢を示すなら、そうした変質の構造こそが批判されるべきものであり、「主要な敵」を見えなくさせているものであるという他はないからだ。
そして、この筆者が撃っているものは、具体的にはあそこで批判された左派の人たちであるとはいえ、本質的には、あくまでこの構造なのだということが、理解されるべきだと思う。


左派といってもさまざまな人があり、さまざまな立場で戦っている。その立場の違いを乗り越えた共闘のようなものを阻害することはよくない。
そういった考えから、金光翔のあの論考の論旨が批判されるとしたら、だから間違っている。
現在、たしかにさまざまな人のさまざまな戦い(抵抗)があるのだろう。だが、そこには欠けているものがあるために、この戦いは現実的な力を持ちえていない。むしろ、それが運動の論理から外れるような、あるいは国民的な枠組みに包摂されないような少数者を排除することで、国家による統合と管理に加担するような結果となっている。きつい言い方になるが、たしかにそう言える部分はあると、ぼくにも思える。
『<佐藤優現象>批判』は、左翼のそうした変質を批判することによって、この「さまざまな戦い」に現実的な力を付与しようとするものだ。
それは、そうならなければ、国民的な統合から排除される人たちの人権や、「国民の敵」と見なされる人たちの生命が、他ならぬこの左翼の「さまざまな戦い」によって危うくされるからだろう。
つまり、変質によって現実的な(主要な)敵を見失い、本来の力を失ってしまったこれらの「戦い」は、抑圧されたり虐げられている人たちを救う(守る)という意味の、本来の「左翼」のあり方とは、まったく無縁なものになってるわけだから、そういう状態のままの「連帯」や「統合」を損なわないために批判を差し控えるというのでは、まったく本末転倒の話になってしまう。
批判することによって、そのことに気づかせ、排除された弱い立場の人たちの生命や権利を守るために、国家をはじめとするさまざまな権力と(これらの人たちのために)戦うという、「左翼」本来のあり方に立ち戻ってもらうということが、金光翔論考の意図したところだと、ぼくは共感を込めて思うのである。


左翼であるとは、どういうことか

話が少しそれるが、ここで「左翼」とは何かという定義を、ぼくなりに示せば、社会のなかで抑圧されている人たちのために戦う、ということだと思う。
この「抑圧されている人」が、運動する当人であるとき、それは「当事者運動」と呼ばれる。だが、左翼が左翼である限り、その場合でも、「私が私であること」と「私が(抑圧される)当事者である」こととを比べれば、後者の方がいくらかは重いはずだ。
つまり、「(私である)被抑圧の当事者を支える、守る」という要素の方が、「私が私である」という同一性の論理を、なにがしか上回っているはずなのである。
この「なにがしか」の部分が、いわば左翼の精髄だと思う。
ともあれ、社会の中で抑圧されている者のために戦う、つまりそれが、ぼくの「左翼」の定義である。


ぼく自身は、左翼でありたいと願ってはいるが、左翼と他人に認めてもらえるようなことは何もしていない。
なので、以上の定義は、「こうありたい」という、自分の願望を書いたものでもある。


ついでなので、「左と右の連帯」ということについても、一言述べておこう。
便宜上、仮にぼくが左翼と自称できるとしよう。
左翼であるぼくは、たとえば戦争中の中野正剛のように国家的な権力に抵抗した、ナショナリストなりファシストなり(佐藤優も、当初はこういう人に見えた)を、評価するばかりか支援・共闘さえすることがあるだろう。
それは、この相手の人が、国家というものに、とりわけ私にとって主に責任をもって戦うべきだと考えられる国家や社会というものに抑圧され、それに抗う立場にあるからである。
相手がどんな人でも、このような個人を助けたり、尊敬したりするのは、人間としてのみならず、左翼としても当たり前だ。
だが、左翼であるぼく(と認めてもらえるとして)が認めて尊敬したり助けるのは、この抑圧されている個人であって、排外主義的であったり国民主義的であったりする、その思想ではない。この思想が、他の抑圧されている人、とりわけもっと立場の弱い人たちを排除・抑圧することにつながるのであれば、その思想(右翼性)が、ぼくに容認できるはずがない。
人が左翼であるということは、そういうことだと思う。


総連弾圧と政治的なものの排除


さて、日本の左翼・リベラル派が変質して、国家による弱者・少数者への排除・攻撃と戦わなくなった、むしろ遠まわしにこの国家の動きに同調するようにも見えるようになったことの例の一つとして、『<佐藤優現象>批判』で論じられているのは、警察の朝鮮総連に対する弾圧的な捜査をめぐる左翼・リベラル派の黙認、ということである。
この件については、ぼくも最近はまったく言及出来ていないので、心苦しいのだが、大事な事柄なので、これに触れないわけにはいかないだろう。
上記の金光翔論考の文中には、こうある。

以下の叙述でも指摘するが、佐藤は対朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮武力行使在日朝鮮人団体への弾圧の必要性を精力的に主張している。安倍政権下の拉致外交キャンペーンや、一連の朝鮮総連弾圧に対して、リベラル・左派から批判や抗議の声はほとんど聞かれなかったのは、「化学反応」の典型的なものである。


朝鮮総連に対する警察の弾圧的な行動というのは、(やはり上記論考のなかにも書かれている)当時の漆間警察庁長官の発言からも明らかなことであり、こうした不当逮捕や不当捜査を容認しないこと、それを助長するような報道を非難していくことは、たとえば不当解雇やサウンドデモへの弾圧に抗議することと、少なくとも同じ意味を持つはずである*1
日朝関係の現状と、在日朝鮮人がもともと日本でおかれている立場を考えれば、この問題をめぐっては、左翼にとっての主戦場(戦いのライン)は、国や警察によるこうした政治的弾圧行動を許さない、というところにあるはずなのだ。


だが実際はどうかというと、さまざまな理由がつけられて、総連への弾圧が非難されることは極めて少ない。
最良の場合でも、摘発や捜査が法的に妥当であるかどうかということだけが問題になり、警察当局の発言が明示している政治的・弾圧的な性格そのものが指弾されるということは、ぼくが知る限りない。つまりは、国家による少数者への弾圧という政治的な領域が、この事柄をめぐる「リベラル的な言説」から、すっぽり抜け落ちてるわけである。
これが、「主要な敵」の不可視化、と呼べる事態である。
弾圧する側が「政治的ですよ」と明言してるのに、それを批判するべき側は、その政治性を除外したところでしか問題を語らないか、もしくはまったく事柄を語らない(こちらの方が、圧倒的に多い)かの、どちらかである。
この、政治的な対立(抵抗)の次元の除外を土台とした「左右の連帯」のような言論界の動きを批判して、あるべき抵抗の方向を明確にしようとしたのが、金光翔の上記論考だと思うのである。



国民統合とリベラル的価値観


さて、ここからは、やや込み入った事を書かなくてはいけない。
左翼・リベラル派において、総連への弾圧が不問とされる際の言い分のひとつは、「総連は問題のある組織だから」ということではないかと思う。
朝鮮民主主義人民共和国という国に対してもそうだが、朝鮮総連についても、その組織としての抑圧的な性格ということが、とくに左翼・リベラル派のなかでは非難の対象となることが多い。


大雑把に言って、それらの批判や行動には、たしかに正当なものがあるだろうとは思う。たとえば、後で触れるが、在日の多くの文学者にとって、組織との関係をめぐる「政治と文学」は想像を越えるほどに過酷な主題だったはずである。
だがここで、もっとも考えられるべきことは、こうした総連への批判が、日本の国と社会による在日朝鮮人社会への圧迫という、過去と現在のマクロ的な政治的現実の認識から切り離して行われるなら、それは別の政治的効果を持つものに知らぬ間に変容されてしまうだろう、という見やすい事柄である。


はっきり言えば、こうしたそれ自体はリベラルな、あるいは人間的な信念にもとづいた*2批判や行動が、金光翔が指弾していたような、悪しき国民的統合への合流のための隠れ蓑として機能してしまう危険性は、小さいとは言えないはずなのである。


その場合、総連弾圧の件に関して言うなら、左翼・リベラル派にとっての戦いのラインは、国家の弾圧にさらされている(敵対国と名指されている)在日外国人(しかも旧植民地の人たち)を守るという明確に政治的な線から、抑圧的で「怪しげ」な(非国民的な)組織の手から(誰かの)市民的な権利・理念を守るという私的な線へと後退していることになる。
というよりも、ここでは戦いが左翼的な大義を喪失して、融和的な共同性や、国民的な同一性の堅持もしくは、そこへの密かな合流のための方策へとすりかえられてしまっているようにさえ見えるのである。




いま、毎週水曜の夜に教育テレビで作家の梁石日の出演する番組が流れているが、先日は若い頃に所属していた同人雑誌「ヂンダレ」の話が出ていた。
先輩である詩人の金時鐘も出ていた。
梁石日金時鐘は、組織の方針通りに書けという朝鮮総連の方針と対立して、雑誌から離れざるをえなくなり、組織との厳しい対立のなかで苦境に立たされることになった、という経緯が、ここで語られる。
この人たちは、本当に組織の大きな力と命をかけて対峙してきたのだろう。
だが、このことが「芸術表現の政治からの独立性」という理念の名で語られる*3に際して、背景には金日成銅像の映像が映し出される。
この映像を背景として、これら在日朝鮮人文学者の「組織との葛藤」がカメラの前で語られ、放映されるとき、そこで視聴者が受けとることになるメッセージは、たんに「表現の自由」や「芸術の政治からの独立」ということではありえない。
それは、朝鮮総連のような(日本国家と日本人にとっての)反国家的・反社会的集団と対立し離反して生きた人の「人間性」の称揚(同時に総連の反社会性・反市民社会性の再確認)であり、総連をそのような存在として見出しているリベラルな(もしくは愛国的な)私たちの「人間性」の確認なのである。
それは言い換えれば、国家的な排除の暴力への加担者としての、われわれ自身の無罪性の確認である。
そこには、この日本の社会の中で、多くの在日朝鮮人が、組織や政治の枠組みとの、協同や対峙や離反といった過酷な現実を生きてこざるをえなかったことへの、人間としての(無論政治的でもある)想像力、また旧宗主国の人間としての責任感は、微塵も介入する余地がないのだ。
これが、歴史と政治の忘却ということであり、左翼が連帯するべき(救うべき、守るべき)他人の存在の、半ば意図的な忘却ということでもある。


リベラル的な言説が、国家的な暴力に同調して、「例外」とされた目障りな人たちの排除による「統合」の実現を正当化していく過程は、たとえばこのような形をとるものなのだと思う。
この番組の製作者や、そして「北朝鮮問題」に関して「人権」などのリベラル的な理念に基づいて発言し、行動している人たちの多くが、そのような意図を明確に持っていると言いたいわけではない。
だが、主戦場がどこかを忘れた、とりわけ意図的に忘却したうえで行われるリベラルな努力というものは、国家や国民への統合に向かおうとする欲望の力の前では、あまりにも弱いと思う。
その弱さを克服し、リベラル的な理想を真に現実のなかで普遍的に実現するための力を、日本の左翼・リベラル派が持つことへの切実な希求を、われわれは金光翔の論考の行間に、聞きとるべきではないだろうか?

*1:もっとも、派遣労働者の解雇や、サウンドデモなどへの弾圧に対して、政党や大労組につながるような左翼勢力がどれほど批判を行ったのかは知らない

*2:その最良のものは、http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20070815/p3この本に見られるような深い友情を込めた、朝鮮総連への提言と批判の姿勢であろう。

*3:テロップだったか、ナレーションだったか忘れたが