侮蔑とたたかうこと

ずっとエジプトやチュニジアの動きが報じられたり語られたりしているが(日本の報道は、とても十分なものではないが)、散見する限りこうした動向を、イラン革命ソ連・東欧圏の崩壊時の動きと比較する論調ばかりで、直前にヨーロッパ(イギリスやフランスやギリシャなど)で起きた反乱と、結びつける議論があまり聞かれないのは、異様な感じがする。


まして、日本でこの間起きている抵抗、たとえば高江や祝島の状況や、精華大学の非常勤雇用の問題や、そういうことと重ねて語られることは、とても少ない。
要するに、中東で闘われている状況と、我々が直面している不条理な状況とは、根本的に別なものだという報道のされ方、論じられ方がされていて、それが起きている出来事の意味と衝撃をまともに受け止めないで済ませるための装置として働いている。


フェースブックツイッターが中東の運動のあり方を変えた、という論も聞くが、それらがあっても、ぼくたちはこの社会を中東の人たちのようには変えられずに(変えようとすることができずに)いるのだ。
もし多くの人が、あのように変えようとして実行し始めるなら、それこそが最大の変化だろう。


中東の社会はどこか遅れた社会であって、自分たち(先進国)の社会の状態に達するために、自分たちよりも遅れた段階で努力をしているのだ、また、そのためには進んだ技術の導入が効果がある、などと考えることは、中東の人たちに対する蔑視であると同時に、自分たちの社会の「民主主義」や「自由」の内実に対しての当然あるべき批判を封じてしまうものだ。
ぼくたちの社会の「民主主義」がそれほど優れたものであれば、たとえば朝鮮学校へのいわれのない差別的な処遇というようなものは生じないはずである。差別や戦争や格差の拡大という傾向を、ぬぐい去れないほどに、ぼくたちの民主主義は「遅れている」。
何より、不正に対する怒りの表明、自分たちのみでなく他人に対して加えられた侮蔑や不正義に対する怒りの、政治的な行使が実現できないほどに、ぼくたちの民主主義は不毛なのだ。


ぼくたちがすでに達成し享受しているという「自由」にしても、その内実はどうであろうか。
今回、エジプトの「大統領支持派」と称される暴力的な連中(秘密警察も含まれていたとされる)が、警察や軍隊の連中の黙認のもとに、広場に集まった市民たちに暴虐を加える光景が、とりわけ海外メディアによって生々しく報じられた。


ぼくはあの光景こそが、今の日本の社会で実現している「自由」と呼ばれるものの公然化した姿であり、その「自由」の本質とは、警察や国家によって国家権力と親和的な者たちにだけ認められた暴力行使の自由以外のものではないのだ、とさえ思う。
つまりぼくたちは、「自由」という言葉の政治的な簒奪においても、中東の国家体制と本質を異にするわけではないのであり、ただその精緻化の度合いを増しているという意味でだけ、かの地よりも「進んだ社会」だと言えるのである。


「自由」も「民主主義」も、日本では、中東諸国よりも、なお一層奪われてある。
むしろぼくたちには、中東やアジアやヨーロッパや南米の人たちが有している、民主主義や自由を我が物にするための、根本的な条件が欠けていると思う。
それは、他人を蔑視しない心であり、他人を蔑視しない心によって得られる、自分たちが生きている状況に対する総合的な眼差しとでも呼べるものだ。


今回話題になったフィフィさんの記事を読んで、そこに国民主義的な感情の表白しか見ないならば、その人は最も大事なものが見えていない。
ここに示されているのは、エジプトの人たちが親米政権下において、(自分の国からさえ)侮蔑されているということへの率直な怒りの表明である。
だがその侮蔑とは、自分や自分たちが受ける侮蔑であることを越えて、広く他人や、人間たちの全てが受ける侮蔑へとつながっている。エジプトの人たちの怒りは、自分たちが受けた侮蔑に対して以上に、私たちをさえ含めた、人間すべてに加えられつつある侮蔑に対して憤っているのであり、だからこそその反抗は国境を越えて広まり、やむことがないのだと、ぼくは思う。


ぼくたちに欠けているものは、この普遍的なものへの侮蔑に対する怒りであり、自分のみでなく、また自分自身を通して、他人が貶められ侮蔑されつつある社会の現状への否定の意志なのだ。

革命と戦争は貧窮から生まれるとは、世のおおかたの通念である。だが、これは半面の真理にすぎない。恐ろしいのは貧しい者ではない。卑しめられ、はずかしめられた者なのだ。(『人間論』p25 原亨吉訳)


こう書いたとき、アランは半分は正しかった。
彼に欠けていたのは、革命を起こそうとする者は、自分ばかりでなく、自分を越えたなにものかが「卑しめられ、はずかしめられ」ることに対してこそ怒っているのだ、という認識である。


この人間に対する侮蔑への怒りを忘れたところに、どんな民主主義も自由もないし、また付け加えるなら、どんな革命も独立もありえないだろう。
中東の人たちが、いま身をもってぼくたちに教えてくれていることは、そのことだ。


http://www.dailymail.co.uk/news/article-1353128/Egypt-crisis-Secret-police-blamed-peace-protesters-gunned-Cairo.html