ミスコンと逆差別

夕方ニュースを見てたら、大学のミスコンのことを特集していた。


関西の大学では、女性差別につながるという理由から、学祭などでミスコンをやることを許可しないことにしてる所が多いそうである。
関東では、そういうところは少ないらしい(東大の学生や保護者にインタビューしていて、肯定的な答えが紹介されていた。)。
しかし学生の中には「ミスコンをやりたい」という人が、男女共に少なくないらしく、学生の有志が企画を立ち上げ、企業などからの協力を得て、イベントみたいにして実行したところ大成功した、という内容だった。


まあミスコン自体については、私はあまりはっきりした意見を持っているわけではない。
習慣みたいになってやるよりは、スッパリやらないという判断をする方が好ましい種類の事柄だ、ぐらいに思っている。
番組でも、今はルックスだけではなくて、知性とか他の要素も加えて審査するようになってることが紹介されてたが、それでも何がしか現状の社会の「男優位」の価値観を反映し、また構成しているともいえるものが、ミスコンだろう、とは思う。
だから、本当はやらない方がいい。
最近は、逆にイケメンのコンテストみたいなのもあり、あれも支配的な(男優位の)価値観の裏返しみたいなもんじゃないかと思うけど、それでもどうしてもミスコンをやるなら、せめてそっちの方も一緒にやらなければ不公平だろう、とも思う。


ただ、頭から大学の方針みたいにして禁止するよりも、自分たちなりのやり方で、そういう一般社会の価値観に組み入れられなかったり、逆手にとるような企画をした方が面白い可能性もあるので、そうなると「禁止」ということも一概に好いとは言えないのかなあ、とも思う。
とはいえ、実際には大学当局は、「どこかから反対があってトラブルになると困るから」という消極的な理由で禁止にしてるのかもしれないが、そういう方針を大学にとらせるまでには、学生なり女の人たちの働きかけの継続があったんじゃないかと思う。
それは大変大事なことだと思うので、「大学が強圧的に禁止してる」という現状の印象だけを強調して、「自由の抑圧」みたいな捉え方で、ミスコン開催を肯定的に捉えるというのは反動的に過ぎるだろう。


ミスコンをやろう(もしくは参加しよう)という学生たち自体よりも、それを「支援する」みたいにして乗り出してくる企業や、そういうあり方を「自由」とか「企業精神」のあらわれみたいに持ち上げるテレビ局の姿勢が嫌だ。
学生(とくに女子学生)たちは、今みたいな世の中だから、消費的な社会の中で自分の「価値」を強調したり、その盛り上がりに加わることで達成感や一体感みたいなものを得られる場があれば、肯定的な意見に傾くこともあるだろう。
だがそれは、「男優位」とか、「企業(消費)の論理」といったものが、いかに女性なり、学生たちなりを圧迫してるか、同化を強いているかということの証左でもある。
もちろん、それには回収されない「多様な自己表現」のひとつとしての個人的な意義を持ちうることは、常に認めなきゃいけないんだけど、上に書いたような「圧迫」や「同化(の強制)」という力が加わっている(自分たちが加えている)可能性は、「男性」や「大人」や「企業社会」の側が、常に自覚しているべきだ。


それを、女子学生たちが「私もきれいな女の人を見るのは好きだし、ミスコンには何の問題もないと思う」と答えてる映像とかを流して(正直、ぼくみたいな下品な男は、そういう言葉を聞くとやに下がるけど)、それで「ミスコンはやる方が自然だし、自由」みたいな論調に持っていくというのは、たとえば「沖縄の人も(経済などのために)基地が必要と言ってますよ」とか、「ホームレスの人もテント生活は気楽だと言ってるよ」というメディアの物言いと同じで、自分らの権力性に無自覚すぎると思う。
いや、そういう答えをしてる女子学生が「抑圧を受けた結果言ってる」と決め付けるわけじゃなく、その証言を使う(受け取る)側の問題として。
まあ、ああいう報道を見て、何となくホッとしたり肯定してしまう、ぼくのようなオヤジがいるから、世の中から性差別がなくならんということも言えるわなあ。



それと、話がこの件とは少しずれるけれども、こうしたこと(差別撤廃の動きの「行き過ぎ」)が話題になるとき、よく「逆差別」という奇妙な言葉を耳にする。
これが奇妙だというのは、差別というのは、ぼくの考えでは、ある属性において多数的(支配的)である人(たち)が、少数的(被支配的)な者を排除したり圧迫・攻撃したりする場合に使われる言葉だと思うのだが、「逆」というからには、少数的な側が多数的な側に何かをしてるということであろう。
しかしそれは、「差別」という言葉の定義にあてはまるのか?
それは排除であったり、(ときには過剰な)攻撃とか暴力である場合もあるかも知れないけど、「差別」ではないだろう。それなら「逆差別」と言う必要があるのか?
これは、「差別」という言葉の失効を狙った用法ではなかろうか?


この場合、その行為の主体が「役所」とか「世間」のようなものだったとしても、たんに圧迫が加えられてるということで、「差別」ではないはずだ。
もしそれが差別と呼べるなら、その場合は、その被害を受けてる人が少数的(被支配的)であるような属性が問題(標的)になっているはずである。したがってもはや「逆」ではない。
要するに、「差別」はあると言えるが、「逆差別」とは何なのかが、どうも私には分からない。


昔、プロレス中継を見てると、「出た!ジャイアント馬場の逆水平だ!」という実況があった。
水平チョップのことらしいのだが、「逆水平」とは何であろうか?
水平の逆は、やっぱり水平ではないのか?
これが「逆えび」とか「逆さそり」なら、体の体勢が逆(背中が反る)になってるわけだから分かるけど、「逆水平」というのは実在することなのか。
いまだにそれが不思議である。


それに劣らず、「逆差別」も、私にはその実在が定かでないものである。
それが他の事柄についてはたいへん厳密な言葉の使い方をする人でも、こうした「差別」絡みのことになると、こういうよく分からない表現を自明のもののように振り回す人が居るので、無学な私は余計に面食らうばかりである。