「鬼平犯科帳」と体制内的な暴力

ちょっと前回書いたことに関連する話。
何度か書いたが、テレビ時代劇の『鬼平犯科帳』が好きで、再放送を毎週のように見ている。


今週の放送は「隠し子」という題で、主人公の長谷川平蔵の父親に、じつは隠し子が居たことが明らかになる。
この平蔵というのは、身分のある武家のせがれなのだが、前妻の子どもということで、後妻にたいへん苛められて育った、という設定になっている。そのためか、若い頃は放蕩三昧の日々を送った。長じて更正し、今では「火付盗賊改方」という治安組織の要職にある、というわけである。
この平蔵の父親に、隠し子が居た。それは平蔵の妹にあたる人で、場末で飲み屋を一人で切り盛りしている。
この役を美保純が演じていた。
ぼくは昔から好きな女優・タレントさんなのだが、この若い頃の演技(20年ぐらい前のはずである)を見ていて、正直、こんなに下手だったかと驚いた。
はまり役なんだけどなあ。


まあそれはいい。
書きたかったことのひとつは、この平蔵には20ぐらいの息子が居るのだが、どうも平蔵の来歴といい、この親子の描き方といい、見ていて小泉純一郎父子を思い出したことである。そう気づいて見ると、気持ち悪いぐらいピッタリである。
つまり、名家に生まれながら若い頃やんちゃをした父親と、育ちの良さを感じさせるが血気盛んなところのあるその息子、という絵柄だ。
小泉の親戚の石原家にも似てるかもしれない。
もちろん、このドラマは小泉父子が世間の注目を集めるようになる、ずっと以前に作られたのだが(製作はフジテレビ)、こういう家族像が、特に保守的な人たちの間の理想型としてあるのかもしれない、と思った。


ところで、このドラマの大きな特徴は何かとあらためて考えてみると、その露骨な暴力(権力)性ということが思い浮かぶ。
体制の内部、今で言う警察機構の中に居る人間が振るう、合法的でありながら過剰なほどに描かれる暴力であり、無秩序な(アウトロー的な)気分を帯びた権力(暴力)の行使、ということである。
秩序や法の支配と、過剰なほどの暴力性とが、これほど露骨に結びついているテレビドラマを、あまり他に知らない(あえて言えば、イーストウッドの映画か?)。
たとえば「暴れん坊将軍」なども悪人を殺しまくってるが、その暴力性は見えにくいようになっている。一方、かつての「子連れ狼」など、激しい暴力が、ときには権力組織によって振るわれる時代劇もあったが、それは表向きの公権力からは逸脱(非合法)と見做されるものだったはずだ。
それが「鬼平」の場合、立派な(当時の)警察組織が容疑者に猛烈な拷問を加えたり、「鬼」と呼ばれて恐れられることが、暗黙の賛美を込めて強調されるのである。


この、公権力と暴力との結びつきを隠していないことが、たしかにこの時代劇を、他と違ったものにしている点であり、魅力の要因のひとつだろう。
その結びつきは隠されず、かえって強調されることによって、逆に権力の暴力性(その政治的な価値)を美学的な覆いで隠蔽してしまう、とも言える。
いわば「体制内的な暴力(暴発)」がもたらす魅惑、というものが、ここにはある。
見る者は、その暴力の過剰や冷酷さに、ある種のカタルシスを覚えるのだが、それは体制の中で生きざるを得ない(少なくとも、そう思っている)人間が抱いている憤懣や鬱屈を、権力と同化しつつ発散してくれることによるカタルシスであり、その「暴力の代行者」としての「鬼平」や「改方」の同心に、見る者は内心で喝采を送るのだ。
それは、秩序の下で鬱屈を抱えて生きる多数者にとっての、陰鬱な楽しみだともいえる。


この「体制内的な暴力」ということについて言うと、日本の社会・文化の中では、権力の大枠のあり方に抵触しない範囲での「テロル」、いわば「体制内的なテロル」が、たいへん好まれてきたことは事実だろう。
赤穂浪士や、2・26事件などが、その代表的な例だ。新撰組も、歴史の大きな流れに影響を与えなかったがゆえに愛好されている暴力集団だと思える。また大塩平八郎のような人も、「世直し」や陽明学という右派的な文脈では、戦前までもてはやされていた。
さらに、大津事件のような例もある。人々の鬱屈や不満を、国家との一体化を強めながら発散するような暴力(暴発)は、「義挙」という名で人々に好まれ、歴史の流れを決定付ける役割を果たす場合が少なくないのだ。
こういう鬱屈した「体制内的なテロル」への好みは、日本の社会の根底的な性格の一つになってるのではないかと思う。



このように書いてきたが、ぼくは『鬼平犯科帳』というドラマを非難したいわけではない。
それは、とてもよく出来たドラマであるがゆえに、ぼくたちの欲望の形を、よく教えてくれるものだともいえる。
そのことも含めて、このドラマは面白い。この作品が持つ「魅惑」そのものは、体制的でも反体制的でもなく、たんに人間的なものだと思う。
こういう「魅惑」を有する作品が、これからもたくさん作られて欲しい。
非難されるべきは、現実の暴力である。