『殺生と信仰』

殺生と信仰ー武士を探る (角川選書)

殺生と信仰ー武士を探る (角川選書)




平安や鎌倉など往年の武士には、朝廷や貴族に仕えたり、また都風の優雅な文化に憧れる傾向と、東国など地方に割拠して、武勇を誉とする荒々しい傾向とが、混在していたらしい。
特に後者の方は、想像を絶するほどの暴力や残忍の気風をもっていたようである。たとえば、本書で重点的に論じられている絵巻『男衾三郎絵詞』には、次のような意味の記述があるそうだ。

男衾は「馬庭の末に生首たやすな」と称し、門前を通る乞食や修行者を捕まえ、犬追物の犬に代わる的にせよ、と命じたという。(p17)

屋敷の門前を通りかかった流浪の人々を、はじから捕まえて殺し、生首をさらしてしまえというのは、なんとも恐ろしい。
また、時代はくだって『太平記』にも、やはり東国の武士結城宗弘(道忠)の所業について、こう書かれているという。

宗広は、咎のない者を殴ち縛り、僧尼を殺すことは数知らず、常に死人の顔を目に見ないと蒙気の心地がするということで、僧尼男女をいわず、日毎に二、三人の首を切り、目の前に懸けさせた、という。(p25)

こうした残忍さを良しとする気風のようなものは、江戸時代に入っても、歌舞伎や人形芝居、絵草紙の中などに脈々と受け継がれていく。
それを「武士」という特定の階級だけのものと考えるのは、いささか無理があると思う。


それはともかく、本書のはじめの方には、こう書かれている。

武士の負の側面を徹底的に明らかにする必要はもちろん重要であるが、その武士の多様性をも見落としてはならない。殺生を日常とした武士にも信仰の生活はあったのであり、その側面と役割とを明らかにする必要があろう。また武士を受け入れ、あるいは時に利用してきた政治や社会の在り方を考えることも重要である。武士自身がその暴力を矯めて、平和を実現した。その動きにも注目すべきである。暴力性のみでは、何百年もの間の政治の主役たりえなかったのである。(p9〜10)

ここではいわば、上記のような暴力性をはらんだ武士という存在が、外部の世界の権力闘争や変容の中にどう取り入れられて、自らも変容していったか、ということが問題にされている。
「武士自身がその暴力を矯めて」とあるのは、「殺生」から「信仰」へと移行する者もあったという事実(鴨長明の『発心集』が、『今昔物語集』や『古今著聞集』などとともに豊富に引かれている)を指しているのだろうが、むしろそれは、支配権力の形態が暴力を露骨に体現するものから統制的なものへと変化したことを示すものだという視点の方が、僕にはピンと来る。
武士個人の「回心」や「発心」といわれても、それがそんなに重要なことだとは思えないのである。


さて、それでその支配権力の変容、それに伴う武士のあり方の変遷についてだが、本書ではきわめて手際よく整理されていてわかりやすい。
武士が国家的な権力闘争の中心に台頭することになった契機は、院政の確立だったという。退位して院となった歴代の天皇のもとに、源氏や平家の武士たちが結集してきて、藤原家の摂関政治を動揺させる。それとともに、武士の政治的地位はどんどん上がっていく。こうして、数百年続く動乱の時代の幕が開く。
これは、天皇の権力による「力」の回収の構造の嚆矢と呼べるかもしれない。
また、注目されるのは、各地に跋扈した山賊・海賊や盗賊たちと、武士とが、境界を定めがたい存在だったということだ。

今昔物語集』を中心にして盗賊の様相を眺めてきたが、その活動は武士とほとんど変わらぬものであった。事実、盗賊の追捕と関わりながら、盗賊の交通路支配を吸収して成長していったのが朝廷に仕える武士たちの動きなのである。(p154)

もともと盗賊や悪党は独自の論理をもって行動してきたのであり、さらに承久の乱によって幕府に受け容れられぬ武士たちがこの道を選んだこともあって、むしろ盗賊や悪党が大量に生み出されたとさえいえよう。様々な形態で存在していた武士や兵が幕府の体制への従属を強いられる中で、盗賊や悪党として活動する道に追いやられていった事情もあって、武士から盗賊へ、盗賊から武士へという相互の変換も活発化していった。(p187)

このように盗賊の活動を見ると、盗賊が鎌倉時代からは悪党と同列に把握されるようになってきたことがよくわかるばかりか、悪僧や悪党、海山賊などは武士と区別される一方で、また武士とも一体化しており、基本的には武士の一類型であったこともよくわかる。(p192)

ここには、武士と盗賊との類似はもちろんだが、そもそも国家というものが最大の盗賊(収奪者)であり武士であって、その最大の盗賊が各地の小規模な盗賊たちを「絞めて」行く過程で、新たな時代における国家の統治が確立していき、また武士のあり方も体制内的なものと、そこから外れていくものとに二分化していった様子がうかがえるだろう。
その過程の最後の仕上げとなったのが、織豊・徳川政権による、いわゆる天下統一だったと考えられる。

こうして室町時代以後、兵・賊・武士の三つの武士の類型は、その基本的な性格は維持されながら保たれたが、次第に兵や賊・武士から商人や芸能者になる道が生まれたり、族が武士に編成されて武士化の道を歩むようにもなった。その流れを一気に推し進めたのが統一政権である。(p273)


それにしても、境界を定めがたい存在だったのは、武士と盗賊たちばかりではないだろう。
本書の192ページあたりには、鎌倉時代に、酒宴やさまざまな乱行を好み、各地を放浪したらしい「徒衆」と呼ばれる集団のことが出てくる。
それは必ずしも武士の範疇に収まらない存在だったらしいことを著者も認めているのだが、そこには、室町に続いていく、いやそもそも歴史のどの時点から始まったのかも定かでない、流動的で、また時には暴力的でもある民衆、被抑圧者集団の姿が見いだせると言ってよいのではなかろうか。
やがて統一政権が「矯め」、管理するようになったのは、ただ武士の力や暴力性だけではなく、こうした民衆のポテンシャルと暴力性・残忍さでもあったはずだ。
だが、特に重要なのは、「矯め」られ、無力化された、民衆のこのエネルギーや欲望がどういう方向に向かったかということだ。
日本の民衆は、武士の暴力によって支えられた統治権力のあり方に、徹底して抵抗したり逃げたりするよりも、自らの欲望や願望を代替的に満たしてくれるものとして、それ(権力の論理)と一体化し、内面化する道を選んだのではないだろうか?
絵巻や読み物、歌舞伎や人形芝居に描かれた武士像に示された、過剰な暴力性やサディズムは、この屈曲した日本の民衆の願望の表明に他ならないもののように、僕には思える。


たしかに、島国という地理的条件を考えれば、そういう形で支配権力に適応する以外の生き方を民衆が選ぶことは難しかったかもしれない。だが、たとえば沖縄やフィリピンの例などを見ても、そうやって長年にわたって身に着けてきた権力に対する姿勢のようなものを、近代以後の歴史的条件の中で、あえてかなぐり捨てることは、不可能な選択ではなかったはずだ。戦前においても、結局日本ではそうならなかったのは、近代以後にこの国が、帝国主義の道を選択したことと無縁ではないだろう。
この国の国民は「支配者の暴力」に自ら同一化することで、社会の中に安定した位置を保持することが諸個人にとって可能になるような体制のなかで、何世代かを生きてきたのだ。