憂鬱な判決

耳かき店員ら殺害被告に無期懲役 裁判員裁判、死刑回避http://www.asahi.com/national/update/1101/TKY201011010293.html


念のために書いておくが、私は死刑制度に反対だし、無期懲役ということにも疑問を持っている。
また、「遺族の気持ちを考えれば」という言い方があるが、それを実際の処罰、とりわけ死刑に結びつけるのは、その心情を尊重すればこそ、するべきではないことだという気がする。そのことも含めて、「処罰感情」という主語の分からない(遺族のなのか、大衆一般のなのか、誰のなのか)言葉を使うこと自体が、感情というものの安売りだと思う。
だから、今回の判決そのものに不満があるわけではない。
「死刑か無期か」という二択そのものをよしとしないので、「この判決でよかった」とは言えないが、それでも死刑判決が出なかったことは、良かったとは思う。


あれほど事件の凶悪さを扇情的に強調するような報道がなされ、また、とはいえ実際に凶悪な事件であることはたしかで、しかも検察側が(報道によれば)裁判員たちの情緒に訴えるような働きかけ方をしたとされるなかで、裁判員の人たちが抑制された「理性的な」判断(判例に沿うものでもあっただろう)を下した(らしい)という事実には、安堵と共に感銘に近いものも覚えた。
しかしこの点については、誰しもこのような重責を担わされる立場に立てば、このような慎重で抑制された判断を下さざるを得ないものであり、これをもって「裁判員制度が人々を成長させた」かのように言うのは、大衆を「情緒的」と決め付ける役人やマスコミなどの偏見(情緒的にさせているのは彼らだ)の表れだと思うと同時に、「裁判員制度」という不当な制度を持ち上げるための詭弁のようなものだとも思う。
むしろ、こんなひどい制度のなかに投げ込まれても、人はこうした優れた判断を下すことが出来る。
ひとまず、そのように考えるべきだろう。
元来(権力によるひどい扇動や操作さえなければ)、一人一人の人間にはこうした能力が備わっているということの、ひとつの証明でもあろう。


さてだが、以上のように今回下された判断について、ひとまず好意的な評価をしながらも、発表された判決文の要旨については、少なからぬ不安や憤りを覚えざるをえないのだ。
いま、判決要旨が手元にないのが残念だが、私がもっとも強い違和感を持ったのは、被告を極刑に処さない理由のひとつとして、「前科もなく、20年間まじめに働いてきた」ということを挙げていた点である。
この被告はたしかに、高い学歴を持っているというわけでもなく、地道な仕事に就いてきて、派手とも特に裕福ともいえない人生を送ってきた人であろう。また、若いときに難病を発病して現在に至ったとも聞く。
そのような経緯は、冷静な判断の一材料として(冷静ということは情状を排するという意味ではないから)、情状酌量の要素とされてしかるべきものだろう、とは思う。
死刑という極刑をなるべく多く適用しないようにするという裁判所の言い分は、死刑制度を続けている上でのものだから、私には欺瞞的にしか聞こえないが、ともかく「情緒に流されるようにして死刑判決が出されてしまう」(しかし、この発想自体が一般人を馬鹿にした視線の表れだと思うが)ことを避けるためには、こうした要素を強調してしかるべき所に判決を落ち着かせる努力がなされたのだろう、ということも察しがつく。


だが、「前科もなく、20年間まじめに働いてきた」ということを、極刑に処さないための理由のひとつとするということは、司法権力が、命というものに関して、その重さの基準を定める、ということである。
その人がどんな生き方をしてきた(と見なすか)によって、その人は死刑になったりならなかったりする。その基準を定めるのは裁判所だ、ということになる。
このことは、ただ私自身が「20年間まじめに働いてきた」という風な人間ではないから、言うわけではない。
いや、そういう生き方をしてこなかったら、これほど敏感に反応しなかったかもしれないが、それでもとにかく、私はこの一文に、差別的でもあり、権力の生存に対する介入というような、非常に嫌なものを感じた。


上に書いたように、この被告自身は、決して恵まれたエリート的な人生を送ってきた人ではないだろう。
だが判決文の筋のなかでは、「前科もなく、20年間まじめに働いてきた」とされることによって、いわば「正当な市民」としてのお墨付きを司法権力から与えられ、そのことが死刑を免除される理由のひとつだとされているのである。
つまり、「正当な市民」と見なされないものは、同じ罪を犯せば、死刑になるだろう、ということだ。


一方で、惨殺されたのは、サービス業の若い女性と、そのおばあさんである。
死刑にならなかったこと自体が問題だというのではなく、「正当な市民」であることを理由として、殺人を犯した者が極刑を免れ、この二人の女性の無残な死は「極刑に値しない被害」とされたことに、どこか差別的な権力の意志を感じるのは、私だけだろうか?
付言すれば、判決文には、被告と殺された女性とが、一時良好な関係を持っていたということも、極刑に値しない理由のひとつとされていたと思うが、そんなことが酌量の理由になるなら、こうした仕事に就いている女性たちの大半は、殺されても犯人が重罰に処される可能性が、他の職種の人より低い、ということになりはしないか。
ここにも、人の生き方や、市民としての資格に関する、司法権力の差別的、同時に管理的な視線が働いていると、私には感じられるのだ。


「この国は、正当な(一級の)市民が、サービス業の若い女性を惨殺しても、極刑に処せられることはない国だ」。
私には、この判決文は、そんなメッセージを社会に向かって発しているもののようにさえ思える。


こうした差別・管理的な観点が、裁判員制度というものの根底にもあるのではないかというのが、私の考えだ。
司法の側は、人々を強引に司法の場に参加させることによって、いわば国民全体の訓育を行おうとしているのではないか。その前提になるのは、「一般大衆は情緒的だ」という愚民的な視線であり、そのイメージを強調することによって、権力の側は、自分たちの都合のいいように人々をいわば「理性化=訓育」していこうとする。
その行き着く先は、権力が定めた「生存に値するか否か」の基準の、国民各自による内面化、ということだろう。
そもそも死刑制度の存在が、そうした操作をより容易なものにしていることは、あらためて言うまでもない。