「許すべきでない」こと

きのう6月8日は、秋葉原の殺傷事件が一年前にあった日というだけでなく、あの池田小学校の事件が起きた日でもあったそうだ。


ところで、ぼくは自分の子供の頃の経験に由来するのか、大相撲の力士のリンチ事件とか、自衛隊の隊員がシゴキまがいのことで殺されたとか、そういったイジメを想起させるような報道には、たいへん感情的になる。普段厳罰には反対しているのだが、こういう事件に関わった人が罪に問われず、曖昧に処理されそうなのを見ると、本当に腹が立つ。
その一方、通り魔的な事件の報道などには、案外冷淡である。自分でも「偏ってるな」と思う。


今度施行される裁判員制度というのは、あんなものがすんなり実現してしまうということはとんでもない話だと思うけど、行われるとなると、こうした個人的な体験による判断の偏りみたいなものは、避けられないのではないか、と思う。
「人間は情緒的に偏る」ということを前提に含んでいない「民主的な制度」は、どうも胡散臭い。今までのプロの裁判官制度は、いい制度ではなかっただろうけど、まだしもその前提を含んでたと思うが、今度のは、どうもそういうものがないように思う。今頃言ってもどうにもならんだろうが、まったく嫌な制度だなあ。
情緒的に偏らざるを得ないような社会体制を作っておいて、「当然理性的に判断できるでしょう」という建前で、一般市民に判定をさせるんだから。


そして、「偏り」ということで言うと、組織の中でのシゴキやリンチが大目に見られてしまうことを許せないと感じる「偏り」は、今の社会においては、たいへん大事なものだと思う。
だがそういう「偏り」に限って、きっと「理性的でない」といって排除されるであろう。
組織や体制の維持に差し支えのない、そこからはみ出して粗暴さを爆発させるような「落ちこぼれ」的な人たちの暴力だけが(それはもちろん、凄惨なものだけど、本当に「許すべきでない」ものは他にあるはずだ)「許せない」悪として、そこに向けられる市民裁判員の「偏り」だけは容認され、助長されるんだろうと思う。
そのことが、何より嫌なのだ。