二度目の毀損

桐生市の小学生の自殺のことに関しては、ようやく今日になって、自殺の原因になったイジメ(そのこと自体を、まだ学校側は認めてないようだが)の背景に民族差別の要素があったことを示唆したり強調する(小倉智昭など)論調が、一部マスコミにも出てきた。


イジメというのは、何が原因であっても起きる。
いや、原因がなければ、それを無理やり作り出しても行われるのが「イジメ」という社会現象であり、それは社会全体の縮図だと言われるのも、その通りだろう。
そして、民族的というのか、国籍や人種に関することでは、政治的にも文化的にも、子どもたちが「標的作り」、「理由作り」のお手本にする材料は、この社会には満ち溢れているのである。
今回の出来事に関する発言に対する、こんな過剰反応も、その歪んだ社会のあり方を示す一例だと言える。
http://han.org/blog/2010/10/post-147.html


イジメの原因に民族差別的な要素が無かったと述べたい人たちは、真面目にそう言っているのであれば、イジメというものを(差別というものについてももちろん)知らなすぎるのである。
そこに少しでも、攻撃・排除の材料となるものが見出せたなら、いじめる側がその材料を使用しない可能性は、ほとんど無い。それが民族的なものなら、「まったく無い」と言い直してもよいだろう。
イジメという行為において、民族的な差別ほど使いやすい材料は少ないだろうというのが、残念ながら今の社会の現実なのだ。


誰かが言っていたが、こうした発言に反発する人の本音は、『自分たちもひどい被害を受けてきたのに、外国人など特定の被害者だけが「差別」の名の下に(特権的に?)扱われるのは不公平だ』ということにあるのかも知れない。
そういう感情は分からないでもない。
そして、たしかに命の重さと同様に、人が受ける傷の重さにも、属性やその原因による(差別か否か等)軽重の違いがあるはずはない。


だが(そう述べたい人たちに向かって言いたいのだが)、ここで問題にされているのは、むしろ、その命の重さや傷の重さが、当人の(少数者であるという)属性によって「差別」を受けているということの不当さなのだ。
苦しんで死んだ人には、個々それぞれの特異的な事情があったはずである。
それは、その一人一人に関して、丁寧に光を当てて考え直されるべきことである。社会全体の都合から、それら事情のなかの特殊なものだけは伏せておかれたり、「存在しないかのように」扱われる、不公平があってはならない。
今回のケースでは、当然推測されるべき「民族差別」的な要素が、まるで報じられず語られなかったことにより、被害を受けてなくなった人の命や傷に関して、そうした不当な不公平、理不尽な歪みが生じたのである。


これは、まったくひどい話ではないか。
誰の命も(死も)、同じ重さを持つはずなのに、また誰の心の痛みも同じように扱われるべきなのに、この亡くなった人の(ような)場合に限っては、その有りえたであろう一部分が、社会全体の不当な力を被って歪められ、存在しないかのように扱われているのだ。
これは、亡くなった人の命への、二度目の集団的暴力、二度目の命への毀損でなくてなんだろう(その二度のいずれにおいても、真の加害者は大人たちだろう。)。
そして、そういう毀損行為が、平然とまかり通っているのが、私たちのこの社会の現状なのだ。