『大逆事件 死と生の群像』

きわめて重要な著作。いまの日本を生きるうえで是非とも読むべき本をあげろと言われたら、僕はノーマ・フィールドの『天皇の逝く国で』と並んで、この書物を推す。

大逆事件――死と生の群像

大逆事件――死と生の群像


この本を読んでもっとも衝撃的だったのは、「大逆事件」と呼ばれる、日本国家(政治・司法・マスコミ・民衆)による巨大な謀略事件が、決して、明治に起きた過去の出来事ではなく、現在進行中の事象であるという事実だ。
明治の末に起きた「大逆事件」とは、その本質としては、社会主義思想の殲滅と、天皇を中心として戦争を行ないつづける国家体制の確立を主目的として、ほぼ全て警察・検察側の筋書きに沿って「共同謀議」がでっち上げられ、ほとんどがまったくの無実である26人が逮捕され、そのうち12人が処刑され、残りの人々も(「恩赦」の名目により)無期刑、もしくは有期刑(2人だけ)に処せられたというものである。
死刑を免れた14人についても、そのほとんどは獄中で自殺や病死を遂げたり、「特赦」と称する処置によって数十年後にようやく出所した場合でも、官憲による監視と、社会からの徹底的な排除のなかで、時を経ずして非業の死を遂げている。
なおかつ、そうした悲劇は、決して被告とされた人たちだけのものではなく、その家族や親せきにも、同様の「運命」が襲いかかった。
大逆事件」は、国家と社会による巨大な謀略事件であり、国家にとって不都合だとみなされた人々、およびそういう存在であるという役割(濡れ衣)を国家からお仕着せられた人たちを、権力と民衆とが一体になって迫害・抹殺した集団的殲滅行為、近現代日本の犠牲の儀式だと言ってよい。
著者、田中尚伸は、驚くべき綿密な調査と、思いを込めた重厚な文章によって、この歴史的事実の全容を明らかにしていく。


その記述を通して明らかになることの核心は、冒頭に書いたように、この歴史の過程、「大逆事件」と呼ばれる巨大な犠牲の装置が、いまも決して過去のものになってはおらず、戦後と現在の日本をも支え続けているという事実である。
大逆事件」が、歴史のなかで行われた天皇制国家による虚構の(ねつ造された)事件であり、その裁判が誤ったものだったという事実を、今にいたるまで、この国の政治も司法も、公的には一度も認めていない。
のみならず、一般社会も、とくに地域社会という、その表層的だがもっとも重要な細部においては、いまも「大逆」という国家の論理を脱却していない。犠牲者(被告)たちとその家族との救済と名誉回復は、まったく為されていないと言ってよいのだ。
大逆事件」は、いまも続いているのであり、「大逆」という、国家による恣意と虚構の論理は、いまもこの国のすべてを覆っている。


ここでは、本書に書かれた「大逆事件」の犠牲者(被告)たちの戦後の経験から、二か所だけを引いて、私たちの戦後の社会が、この点においては戦前と同一であったということの例証としておきたい。
飛松与次郎は、若干20歳のときに、この冤罪事件に巻き込まれ、15年後の35歳のときに仮出獄する。しかし、それは無実が認められたからではなく、獄中での態度が良かったなどの理由による措置であり、出獄後も執拗な監視の下に置かれて生涯を送る。彼は戦後数年を経て亡くなるが、その墓はなく、遺骨も行方が分からない(大逆事件の犠牲者には、こうした人が多い)。
彼は、戦後になってようやく、(あくまで「無実」の認定ではなく)無期刑の執行を無効にするという「特赦」を認められることになる。

飛松が無期刑の執行を無効にすると特赦されたのは、戦後の四八年六月二六日である。すでに五九歳であった。猪飼から見せられた「特赦状」は、手書きの粗末な紙にわずか一行「特赦せられる」とのみあった。これが二〇歳の夢多き青年の人生をひっくり返してしまった国家の「言葉」である。(p220)

飛松は、この5年後に亡くなった。もちろん「特赦」とは、国が自らの不当な所為を認めることなく、開き直ったうえで恩着せがましく「恩恵」を示したということにすぎず、彼はあくまで無実の罪と不名誉を着せられたままで死んだのだ。
その無実も不名誉も、いまだにまったく晴らされていないのである。
また、戦後まで生きて、驚異的な粘り強さで、唯一「再審請求」をおこなった坂本清馬の行動に対する(1960年代前半当時の)マスメディアのあり方を批判して、著者の田中はこう書いている。

大逆事件」唯一の生残りという好奇心と興味本位でマスメディアは、情報を追い、国家による「思想の暗殺」と殺人だった事実に迫る報道は皆無だった。かつての国家に追随した「大逆報道」を検証するような報道もなかった。ジャーナリズム、司法、宗教は戦後二〇年近く経っても、敗戦前の意識と変わっていなかった。(p280〜281)

日本では、結局のところ、天皇制を標榜する国家が唯一絶対の原理であり、ジャーナリズムも司法も宗教も、そしてわれわれ民衆の社会もまた、事態が押しつまって来れば、諾々としてそれに従うようになる。
本書に描かれた「大逆事件」の全貌は、この国の、そうした「現在」を暴き出すのだ。