共感した記事(末尾追記)

「テロ」なんかではなく「無理心中」
http://d.hatena.ne.jp/t-kawase/20080723/p1


こうした事件を、なにか社会構造の問題と結びつけて語るということ、とくに「何かの手を打たないと、こうした事件を起こす人が後を絶たないから、なんとかすべきだ」みたいな言い方には、ぼくも反対である(以下は、上記の記事の論旨からは離れると思うが、ぼくの感想。)。


理由は二つ。
まず、犯罪であっても、人が何かの行動をするということには、「社会構造」という一般性に還元できない要素がある。「凶悪犯は、一律死刑にしてしまえ」という情緒的な厳罰論は、人の行動の固有性を見ようとしていない(法制度による対処が、すべてそういう欠陥を持つわけではない)が、「社会構造の歪みが、こうした犯罪を引き起こすのだ」という言い方も、別の意味で人の存在や行動の固有性を抹消している。
要するに、それらは悪い意味で政治的すぎる。むろん、この悪しき政治化のなかで、加害者ばかりでなく、被害者の生と死も貶められ忘れられるのである。


二番目に、社会構造について言えば、重大なことはむしろ、社会の悪い構造があるにも関わらず、多くの人はこうした行動(凶行)を犯すこともない、ということの方だ。
その人たちはその代わりに、自殺や過労死や、他者の死(殺害)への間接的な加担(例えば、戦争や死刑や尊厳死の安易な支持)を、いわば合法的に重ねていく、重ねていくように(知らず知らず)追い込まれていくからだ。
要するに、ここでも人の生と死が、大文字の政治に利用されて、忘れられるのである。


追記:こういう事件で、加害者の「意に忖度する」ようなことを強調する人は、自分たちの政治的な暴力性を否認したいだけではないだろうか。