『和辻哲郎』・家族について

承前。
http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20100902/p1

http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20100903/p1


この本のはじめの方で、著者(熊野純彦)は、和辻の家族論の構想が「祖先伝来」の家を重視するようなものでありながら、実は「特殊近代的な家族像を負荷された議論」(p31)であった、という「屈折」を指摘している。


和辻倫理学というのは、間柄、つまり日常的な関係に根ざして倫理を考えていくというもののようだから、「家族」が重要な論点になるのは当然とも思える。
いや、和辻のそれに限らず、倫理を考えるなら、「家族」のような身近な関係性(たいていの人にとっては、そうだろう)を重視し、まずそこから考え始めるのは当たり前のように思うのだが、どうもそうでもないらしい。
西洋哲学では、ヘーゲルなどは「家族」(近代的家族)を重視したようだが(もちろん、和辻はそこから重大な影響を受けてるだろう)、たとえばカントはそうでもない気がする。デカルトパスカルなどはどうだろうか?
要するに、「家族」の重視は、哲学(倫理学)史の常道ではないように思える。これは、かんがえると奇妙なことである。


人間が生きていく上で、広い意味の「家族」のような関係性によらないということが、かなり難しいだろうということは、野生動物を見ていても分かる。
「家族」という概念をどのように捉えるかということは色々議論があるだろうが、人間が生きていく上で必要な最小単位の関係性・共同性という風に捉えるなら、ここをパスしてしまったところで、倫理について考えるのでは、やはり話が抽象的になる気がする。
それというのも、個人にとって、家族(の成員)とは、実は最も身近な他者でありうる存在だろうからである。
具体的な人間は、日常においてこそ他者に出会うのだとすれば*1、そのなかでも最も身近な出会いの場は、家族であるはずだ。


一方、日本のそれを含めて儒家の思想では、家族的な関係が重視され、さまざまに考えられてきた。
和辻の思想を考えるにあたって、そのことの意味は、小さくないだろう。


ところで、和辻の「家族」観が「特殊近代的な家族像を負荷され」ていたとすれば、それは和辻自身には普遍的・理想的な人倫のモデルのように思われた「家族」の像が、実際には近代国家と近代社会の制度的な刻印を押されたものであったことに、当人が無自覚であった可能性があるということだ。
言い換えれば、家族というものの制度的な側面が、あまり意識化されていないということである*2。突っ込んでいえば、その規定を踏み越えるものとしての「家族」に突き当たっていない、構想できていない、と言えるのではないか。
つまりそれは、上に書いたような「最も身近な出会いの場」としての家族ではない。


そういう、他者と出会う可能性の場として、「家族」と呼ばれるような最も身近で日常的な関係性を捉えていくこと、言い換えれば、お仕着せの(国家的な)制度から外れ、制度を作り変えるようなものとして「家族」その他を構想していくことが、ぼくたちに課せられていることであろう。

*1:このことについては、また別に書きます。

*2:もちろん、儒家などの思想が語っている家族も、多くはその時代・社会なりの制度的な刻印を押されているであろう。