思い違い

ぼくは最近、「哲学」というものの定義は、『われわれ(人間)の考え方や感じ方について研究するもの』ということでいいんじゃないかと、思っていた。
ところが、この本を読んでいて、今日次のような箇所に行き当たった。

構造と解釈 (ちくま学芸文庫)

構造と解釈 (ちくま学芸文庫)


これは、西洋の近世以後、アリストテレス的な思考法、また存在観・自然観が、どのように失墜して、近代的なものに転換したかという説明の一部である。

第三に、以上のこととも連動して、「実体」を樹てるアリストテレスの考え方が疑惑に晒されてゆくことになる。むろん、「存在者」や「実体」が直ちにすべて以後語られなくなるというわけではない。そうではなく、「実体」が樹てられても、それの「存在」そのものは私たちには知られず、私たちに知られるのはただそれの「属性」であり、この私たちに知られるものによって、すべてを処理してゆくという人間中心主義が、以後の歴史を決定した。私たちに知られるものとか、私たちの知り方という、知識論的・認識論的な問題局面が大きな支配力を揮い始める。(p138)


つまりこれによると、上に書いたような「哲学」についてのぼくの考え方は、近代的で人間中心主義的な枠組みにとらわれ、それを自明なものと見なしたところから出てきたものだということが分かる。
近世以前、アリストテレスの影響力が強かった時代には、西洋でも、哲学的思考は、「私たちの知り方」というようなものにその対象を限定していたわけではなく、客観的な存在そのものの探求に関わる行為(この語が適切かどうか分からないが)として考えられていたようなのである。
アリストテレスの言う「ヌース(理性)」について、著者は次のように書いている。

それゆえ、「ヌース」が、存在者の原理の把握に向かって、それを捉えたとき、それは存在者の真相のもとにあることになる。逆に言えば、そのとき存在者の真相が私たちに顕わとなってきているのである。(p127)


「哲学」とは、人間の考え方や感じ方を探求する学に他ならないと考えた、自分の考えの限定性(歴史的に限られたものであること)に気づかず、それをまったく自明のものだと思っていた自分自身に対して、ややオーバーな言い方だが、呆気にとられた。
自分の思考を捕らえている「人間中心主義的」と呼ばれる考え方の強力さと共に、思考にまつわる「自明さ」というもののこのあっけらかんとした強力さに、今更ながら、驚かされたのである。