京都学派と今西錦司

今朝の毎日新聞で、福岡伸一氏が今西錦司の本を紹介していた。
そのなかに次のようなくだりがあった。

そうだ、日本にもナチュラリストはいたじゃないか。自然を愛し、自然の中で生物が語る物語に耳を澄ませ続けた人物が。今西錦司。私が京都大学を選んだのは多分に、今西錦司に代表される京都学派的なあり方に憧憬を感じたからである。


今西の学問や考え方が、京都学派につながるものであるというのは、広く言われていることだろうし、ぼくも何となくそのように思っていた。
それが、そう自明なことでもないらしいと知ったのは、最近、中村雄二郎の『西田幾多郎』を読んだときである。

西田幾多郎〈1〉 (岩波現代文庫)

西田幾多郎〈1〉 (岩波現代文庫)


そこでは、京都学派の代表者ともいうべき、西田幾多郎の思想と今西との関わりが論じられていた。
中村によれば、西田哲学と今西との関係に早くから注目したのは、上山春平だとのことである。

今西は哲学を専攻したわけではなく、直接に西田の教えを受けたわけでもないが、生物学の方法に関する模索の過程で西田の晩年の生命論から刺激を受け、独自の生物学基礎論を打ち立てた。(岩波現代文庫版 『西田幾多郎 ?』p148)


今西は哲学者ではないので、「京都学派」に属するわけではないことは勿論なのだろうが(恥ずかしながら、ぼくはそういうことも分かってなかった)西田や京都学派との思想上のつながりということも、上山が言い出す前には注目する人がなかったらしい。
上山は、戦後その今西の学問の根底に西田哲学の影響を発見し、それが定説(?)のようなものになったということのようだ。


中村は、さらにこう書いている。

今西の場合、西田の考え方に共感を抱いていて、自分のさぐりあてた生物学の方法のうちに、それと一致するものを見出したわけであり、また上山はそのような今西の在り様を《西田の共感者たるにもっともふさわしい道を歩いている》ものとして注目したわけであるが、そのような西田―今西的方法が原理的にどのような意味を持つかについては立ち入って明らかにされなかった。(p149)


そしてこの後、中村独自の視点から、西田と今西との思想的つながりを考えていく。


要するに、今西の学問が、西田をはじめ「京都学派」と呼ばれるような哲学の流派につながっているということ、そういうイデオロギー的な位置づけを持ってるということは、ぼくが考えてたほど自明なことではなかった。
というより、哲学の専門家の立場から見ると(生物学者の立場からはどうか分からないが)、仮説の域を出ないものなのだな、と思ったのだ。


上記の福岡氏は、若い頃から今西の著作を熟読してこられたそうなので、勿論そんなことはよくご存知だろう。
また、中村が書いていたのはあくまで「今西と西田」のことなので、「今西と京都学派」という風に広く設定すれば、もっと明白なつながりが見出せるのかもしれない。
ただぼく自身は、中村の著作を読んだときに、少なくとも「京都学派」という言い方を印籠のようにして使って、それを今西や他の生物学者たちにあてはめようとしていた自分を恥ずかしく思った。
「京都学派」という言葉も、今西の学問のあり方も、できるだけ厳密に考えて、両者のつながりの有無や、その仕方を考える必要がありそうだ。そんな風に感じたのである。


まあ京都学派も今西も、まだほとんど読んではいないのであるが・・。