排除する政治

最悪の日米合意。
テレビで、「これで日米の同盟関係は大きく先に進んだのだ」と威張ってた民主党の若手議員が居たけど、その通りなんだよ(もちろん悪い意味で)。


福島大臣の頑張りは、この最悪の状況のなかでほんとうに立派だったと思う。どう考えても「筋を通す」以外に選択肢のない局面だが、そう出来る人は極めて少ないものだ。


しかし、こうなってみると、社民党の政権離脱(そうなる可能性が高いと思うが)は、はじめから既定の出来事だったような気がしてくる。
こういう風に書くと、この期に及んで鳩山に甘いと言われるかもしれんが(実際、そうだとも思うが)、選挙前から「最低でも県外」と言っていた鳩山首相は、日米関係(「従属的」と悪口のように書くのも抵抗がある)や保守的な日本の権力構造(いつも漠然とした書き方しか出来ないが)という彼個人の「土台」にあたる部分に踏み込まなくても、「国外・県外移設」が可能だと、本気で思ってたのだと思う。
信じがたいことだが、そうだったのではないか。


しかし、総理になってからもそう思い続けたというのは、これはそう「思い込ませた」人間が居たということではないか?
つまり、辺野古案に戻るということは最初から決められていて(「辺野古」が本当に最終的な狙いなのかどうか異論もあるが)、総理にはあえて「国外・県外移設」が十分可能だというふうに思わせることで「迷走」させた。
そうさせておいてから、(「土台」に踏み込まないで済ませるには)「やはり原案に戻るしかない」ということを少しずつ明かしていき(「抑止力」論とか)、この共同声明まで持ち込んだ。


うがった見方だが、どうもそういう側面があったような気がする。少なくとも、ある段階からは、そんな思惑が働いたはずだ。
そう仕向けた人は、具体的には官僚なのか?それは分からない。
ともかく、そういう風にわざと「迷走」させることの意図は、ひとつには、「安全保障の公平な負担」とか「自国の防衛」についての世論を惹き起こし、それを米軍の日本国内全体への展開や、軍事力の強化の方向に誘導する契機とすることだろう。
また、政権に対する世論の印象を悪くして、政権と民主党に揺さぶりをかけること。
そして、平和運動をするような人たちに、「裏切り」の印象を持たせることで(いや、沖縄の人たちにとっては実際に「裏切られた」のだが)、政権から離反させること。同時に、よりはっきりと、社民党を政権から引き剥がすこと。
この最後のものが、ここで明らかにされたと言いたいのである。


「社会運動の影響力がなくなったら、民主党政権自民党政権より(アメリカや保守勢力にとって)無害だ」と先に書いたが、社民党が政権から離れてしまえば、この「無害さ」は一段とはっきりしたものになるだろう。
同時に、それによって選挙協力が得られなくなれば、民主党参院選で大敗して、(最終的には)自民党に政権を再び譲り渡すか、「みんなの党」その他の右派的な(そう言ってよかろう)政党と連立を組む以外になくなる。つまりは名実とも、「中道右派」政権の誕生である。


つまるところ、日本を現状のままの保守国家(アメリカ従属ということと同義である)にしておきたいという人たちにとっては、「自民党(などの)政権」であっても、「民主党(などの)政権」であっても大差はない。
ただそこに、「ややこしい連中」「言うことを聞きたがらない奴ら」が関与されてては困る、ということなのだ。その重要な媒介となりうる存在が社民党だったということで、だからこの党の存在は、「小さなもの」ではなかったわけだ。


自公政権時代に作られた原案に戻るということなら、もっと早くに決めていてよかった。
あえてそうしなかった(されなかった)のには理由があると思うのであり、そのひとつが、社民党を追い込んで政権から離脱させる、というものだったろうということだ。
もしそうしていなければ(筋を通さなければ)どうなったか?
その場合には、社民党はもはや社民党ではなくなるから、「無害」化はもっと完全な形で達成されたであろう(危ないところだったのだが)。
もちろん、まだ政権離脱が決まったわけではないが、福島氏が最後まで抵抗を貫いたことは、既にひとつの大きな意味を成していると思う。
人々の抵抗の声を、政治の場からまったく遠ざけてしまわない、という意味をである。


ところで、ここであらためて確認しておくが、この「原案」を作ったのは元々保守勢力の側であり、彼らの意図を押し通した(鳩山に押し通させた)結果として、今回の「日米共同声明」と社民党(少なくとも福島氏)の離脱があるのである。
だから今起きている事柄全体のひどさの源が、根本的にはあくまで日本の保守的な勢力(自民党によって体現されてきた)にこそあるということは、論をまたない。





首尾よく社民党を、いや少なくとも福島氏を政権から追い出して、鳩山政権と民主党は、今後どうなっていくだろうか。
言えることは、もはや政権の内部に私たちの声を反映させる余地は極めて少なくなったのだから、その分いっそう大きな声をあげて言うことを「聞かせて」いく以外にない、ということである。
どんな政権になっても、政権の意思と、人々や運動の意思とが完全に重なるということなどありえない。距離が遠くなったと思ったら、遠くなったなりの働きかけ方をする以外に、議会政治という意味での「政治参加」の方法はないのだ。
そして今上げるべき声は、なんといっても「怒り」の声である。


いまこの政権は、私たちの声を排除することによって政治を遂行していこうとしている。
政権交代は、私たちが望んだことによって実現したものであるのに、その私たちの声を政権は排除して、私たちが斥けた保守勢力の方に同一化していこうとしているわけである。
それはむしろ、「新政権」という私たち自身が生み出した身体を、悪質な政治家や官僚たちが盗み去ろうとしている状況だ。
この犯罪的な行いに抗議して、政治家たちにあるべき姿を、つまり欺瞞的な「日米合意」の撤回と、リーダーとしてのはっきりした責任の取り方とを、命じていく権利と義務が、私たちにはあるはずだ。