鳩山訪沖

ずっと言ってることを聞いていて、沖縄に行っても今回述べられた以上の「結論」が、鳩山本人の口から述べられることはないだろうと思っていた。
だからこれは、予想通りの結果ではある。


民主党政権は、自民党政権が続けてきた戦後政治の枠組みを、基本的には突き崩せない。それを突き崩そうとすれば、おそらく「民主党」という政党の根幹が崩れる。
たとえば、「高校無償化」の問題でも、「外国人参政権」の問題でも、そのことははっきりしている。まして、日米安保の問題は、その枠組みの破壊が、もっとも困難な部分だ。


民主党は、とりわけ鳩山首相自身は、実際に政権をとってみて、そのことの困難さが、はじめて分かったのだ。
そしていま、開きかけた蓋にあわてて蓋をしようとしている。


それでも、政権交代が行われて連立による政治が行われなければ、基地の存在が沖縄に与えている暴力の大きさと、日米安保をめぐる矛盾の大きさが誰の目にも明らかなものとはならなかったように、また、根本的な政治の枠組みを変えないままに表面上の改革を遂行できるという民主党の思惑の甘さが露呈することもなかったように、今回鳩山の沖縄訪問が行われなければ、鳩山と民主党の抱える自己矛盾の大きさがこれほどはっきりと当人たちに突きつけられることは無く、私たちの前にさらけ出されることもなかっただろう。


基地問題をめぐる政権のこれまでの「迷走」が、この問題の実像を多くの人に知らしめたように、今回の沖縄訪問も、その当然であるが無残な失敗によって、ある現実のありさまを、鳩山自身と私たちの前に突きつけたのである。
たしかにこうした事態は、政権交代と、そしてまた鳩山という政治家の、特異な性格のようなものによってもたらされた、ほとんどネガティブな「成果」、副産物のようなものだ。


「迷走」してきたのは、決して鳩山政権のみではなく、この政権を選んだ多くの有権者たちでもある。
突きつけられたこの「現実」を前にして、それに蓋をするのか、これまで通り自己欺瞞のなかに閉じこもるのか、そのことだけが、私たちに問われている。
「沖縄をどうするか」ではない。
私たち自身の未来への選択こそが、いま問われているのである。