根本的な不平等はどこにあるか

普天間基地をめぐる問題は、辺野古現行案の「くい打ち」による修正で、基本的には決着が図られるだろうとの観測が有力になっている。
そして、この案で本決まりとなれば、沖縄住民による抵抗・反発は必至で、実現は困難だろう、ともいわれる。
だがもちろん、こんな「解決策」は、沖縄の反対運動が起きようと起きまいと、絶対に駄目なのである。


沖縄の米軍基地をめぐる問題が、日本における沖縄の存在(「不当な負担」と呼ばれるもの)を再び大きく浮かび上がらせただけでなく、日米の政治的・軍事的関係を問い直し、さらにこれまで続いてきた戦後の日本という国のあり方をも問い直すようなイシューとして経ちあがることになったのは、政権交代による非自民政権の誕生と、また社民党が参加した連立政権の出現によるところが大きいとの認識は、衆目の一致するところだろう。
しかし、今この問題について言われている「沖縄の負担軽減」だとか、「日米関係の不平等性の解消」だとかいう考え方には、事柄の本質を捉えそこなう危険が含まれている。


「負担軽減」についていえば、これは「沖縄にも、日本国家の一員として応分の負担をしてもらう必要がある」という考えが前提にあり、しかしそれにしては沖縄が負うことになっている(負ってきた)負担は重過ぎる(「公平ではない」)のでなんとかしよう、という発想から出てきた言葉だといえるだろう。
そしてこの考え方は、保守的な主張をする人でも、良識があればとりあえずは同意するところだと思う。
だが、上にあげたここでの「前提」が、そもそもおかしいのだ。


まず、「公平」ということを言うのなら、戦後に限っても60年以上、沖縄に在日米軍基地のほとんどが集中してきたことの暴力を受け止めなければならない。つまり、この巨大なツケを沖縄に対して返済したうえで(それは基地の即時撤廃、少なくとも普天間の県外移設ということでしかないはずだが)なければ、負担の「公平」な配分などということは、そもそもありえないのだ。


さらに重要なことは、薩摩藩による支配の時代からはじまり、とりわけ明治になって日本という近代国家にこの土地を本格的に編入して以後、沖縄戦の惨禍に至るまで、日本は沖縄にいっそう巨大で根本的な暴力(収奪や差別、国民化、軍事化)を加え続けてきたということである。
ところが、この暴力的な構造による負債をなんら返済しなかったばかりか、その構造を温存するために、日本は敗戦後、一度は植民地支配的な形で自国に編入していた沖縄を、アメリカに献上するという形で切り離して「日本」から排除し、基地による暴力のさなかに置くことで、沖縄を日本国家の民衆支配的な構造の存続のための装置として利用してきた、というしかないのである。
沖縄の人々のおおくが、日本という民主国家への参画を望んできたとしても、日本の側が行った対応の、否定できない重要な部分は、それであった。


敗戦後に日本が沖縄に対して行ったこの処遇、そして戦後行い続けてきたことは、在日朝鮮人に対する仕打ちと極めて類似したものである。
それは、自分たちの支配的な構造を維持するために、一度は帝国に統合し収奪してきた外部的な存在である人々を、都合よく切り離して排除し、収奪と支配の返済の問題を無かったことにしてしまうと同時に、アメリカによる世界支配の仕組みにすすんで同一化していく、という態度だ。
排除された人々は、その人々だけが、露呈した政治的・軍事的暴力(ときには、経済的でもある)のさなかに放置される。のみならず、その事実によってさらに差別されたり、敵視や排除の対象にさえなる。
この「犠牲」によってもたらされた、被支配的な「脱政治性」の領域に安住している「市民」たちが、「犠牲」にされて苦しんでいる人たちの「政治性」を揶揄するのだ。


ここに、「日米関係の不平等の解消」という第二の議論が、根本的であることを欠いたものになりうることの理由が明らかになっている。
ここで言われている「不平等」は、日本国家が(追認において日本の市民自身が)、自分たちの権益を守るためにすすんで選択した「不平等」である。
そしてこの権益は、かつての非道な支配によって生じた負債を返済しないこと、それをうやむやにすること、軍事と暴力による支配の体制をアメリカに同一化することで選び続ける等のことによって、保持されているものなのである。
その根本にあるのは、われわれが沖縄を虐げ続けるという「持続する不平等」であり、このなかば無自覚に選びなおされようとしている根本的な不平等のうえに、「日米関係の不平等」という現象があくまで二次的ものとして乗っているに過ぎないのである。


われわれが憤って、弾劾するべきなのは、ただこの「沖縄を迫害し続けることの不平等」、不正義のみである。
少なくとも、それが基盤にあることが、常に確認されなければならない。


民主党政権下の現在起きていることは、おそらくこの、われわれの国が(そしてわれわれ自身が)敗戦後続けてきた欺瞞的な体制、その民衆抑圧的で他者排除的な体質の、全面的な問い直しの要請である。
どんな「不平等」や「不正義」(非公平性)への批判も、自らが行使してきたこの「不平等の構造」への問い直しを含むのでなければ、その根底に届くことはないだろう。



関連論考
武藤一羊氏
普天間問題」再説:政権交代が「維新」だったなら次は「条約改正」にすすむべし

http://www.peoples-plan.org/jp/modules/article/index.php?content_id=56