『コーラ』10号発行

Web評論誌『コーラ』10号が発行されました。
案内を頂きましたので、以下に転載します。


 ■■■Web評論誌『コーラ』10号のご案内■■■

 本誌は〈思想・文化情況の現在形〉を批判的に射抜くという視座に加えて、
〈存在の自由〉〈存在の倫理〉を交差させたいと思います。そして複数の
 声が交響しあう言語‐身体空間の〈場〉、生成的で流動的な〈場なき場〉
 の出現に賭けます。賭金は、あなた自身です。

 ★サイトの表紙はこちらです(すぐクリック!)。
  http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/index.html
 ★Web等での本誌のご紹介も、よろしくお願い申し上げます。
 
 ●シリーズ〈倫理の現在形〉第9回●
  <公><私>混同──その境界を塗り替えろ
   〜「働くことのオルタナティブ」とは〜

  栗田隆子
 http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/rinri-9.html

 1.まず「あの頃」の「不登校」を(しつこく)振り返る
 ──不登校、ひきこもり、フリーター、ホームレス、メンヘル非モテ
 自傷行為、イジメ、自殺―雨宮処凛出世作『生きさせろ!難民化する若者
 たち』では、フリーターという現象を軸に、様々な人へのインタビューを行
 い、これらの事象をぶっ通しで考えろと促した。これが2007年。労働問
 題をベア闘争でも待遇の問題でもない、生存問題として捉えたところが、も
 っとも画期的だった。それも、「かわいそうな人」とすらみなされない立場
 ──「自己責任」を負うべきとみなされた立場、やや古めの言葉で言えば
 「自業自得」とみなされた立場―から考えたことが特筆すべきことだった。
  この点を、どうか、この(拙い)文章を読んでくださる方々には心に留め
 てほしいと思う。フリーターが「非正規雇用」という言葉に置き換わり、こ
 の事態に対し社会的な責任を担わせ、不十分でありながらも法律をも変えよ
 うとしている、2010年の、この時期において。(以下Webに続く)

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 ●特別寄稿●

 “父子愛”と囮としてのヘテロセクシュアル・プロット
  ――トールキン作品の基盤をなすもの

第一章 エルフの原罪
  http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/kikou10-1.html
  第二章 ナン・エルモスの森でつかまえて
  http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/kikou10-2.html
  第三章 では、ホビットは?
  http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/kikou10-31.html

  平野 智子・鈴木 薫
  
 あるトールキン
   ハンフリー・カーペンターの『J・R・R・トールキン 或る伝記』
 (1982年)は、端倪すべからざる書物である。原著が出たのがトールキン
 逝去後わずか三年の1977年、「遺族、友人、トールキンの著作の版元など
 の全面的な協力を得、利用しうる伝記資料を残らず使ってなった、いわば
“公認”の伝記」(訳者「あとがき」)とうたわれているのを見れば、
“公認”であればこそ、かえって生涯の外形的な出来事をかいなでるにとど
 まるのではないか、すでに役割を果たし終えた本で、今ではこれにまさる
 伝記が出ているのではと思われもしよう。実際、著者は、「私は、彼の虚
 構作品に対する批評的判断に一切立ち入らずに、トールキンの一生を物語
 ってみようとした」(「序」)と称し、これを(真に)受けて邦訳者は、
 「こうして描き出されたのは、非凡な人間ではない。巨人でなければ天才
 でもない、どちらかといえば、人間的な弱点を知的な抑制によってどうに
 か支えている、“あたりまえの人間”の姿である」[…](ただひとつ、
 この現実世界よりもはるかに豊饒で、はるかに“現実的”な世界を所有
 し、言語化したことを除いては)」と述べ、次のように続ける。「“あた
 りまえの人間”の生涯が語られることはない。[…]それでよいようなも
 のであるが、ここでは、不思議な物語世界を生み出したために、ごくあた
 りまえの人間の一生が、克明に語られることになった。われわれは一風変
 わった、しかし等身大の人間の一生を、一つ余分に生きなおすことができ
 るのである。望外のことといわねばならない」)――さても翻訳者とは自
 分の訳しているものが何であるかを知らない種族であることか!
 (第一章より) (以下Webに続く)

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 ●連載:哥とクオリア/ペルソナと哥●
  第14章 しるし・あわい・よそ─ラカン三体とパース十体(破ノ壱)
 
  中原紀生
  http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/uta-14.html
 
 二つの純粋経験が重ね描かれる場所 
  第一歌集『海やまのあひだ』に収められた「葛の花 踏みしだかれて、色
 あたらし。この山道を行きし人あり」について、折口信夫釈迢空)は『自
 歌自註』で次のように書いています。
 
《山道を歩いてゐると、勿論人には行き遭はない。併し、さういふ道に、短
  い藤の花房ともいふべき葛の花が土の上に落ちて、其が偶然踏みにじられ
  てゐる。其色の紫の、新しい感覚、ついさつき、此山道を通つて行つた人
  があるのだ、とさういふ考へが心に来た。もとより此歌は、葛の花が踏み
  しだかれてゐたことを原因として、山道を行つた人を推理してゐる訣では
  ない。人間の思考は、自ら因果関係を推測するやうな表現をとる場合も多
  いが、それは多くの場合のやうに、推理的に取り扱ふべきものではない。
  これは、紫の葛の花が道に踏まれて、色を土や岩などににじましてゐる処
  を歌つたので、今も自信を失つてゐないし、同情者も相当にあるやうだ
  が、この色あたらしの判然たる切れ目が、今言つた論理的な感覚を起し易
  いのである。》
 
  ここで折口信夫がいっているのは、この短歌において、踏みしだかれた葛
 の花は、ついさっき山道を通って行った人があることを示す痕跡(記号)に
 なっているのではない、ということです。(以下Webに続く)
                     

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  ●コラム「コーヒーブレイク」その4●
   「社会主義(革命)に於ける複数主義の可能性」への見果てぬ……

  橋本康介
  http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/column-4.html

  ネット遊泳していて、『レーニン・1918』に行き当たった。
  レーニン死後に首相になり、後にスターリンに粛清されるルイコフの甥ミ
 ハエル・シャトロフ氏の『社会主義に於ける一党独裁体制の起源』研究の紹
 介と、10月革命直後、左派エスエルと共産党との抗争を描いた映画『7月6
 日』の紹介だ。革命議会の臨場感に圧倒され、レーニン、左派エスエルの女
 性党首スピルドーノワの弁舌に息を呑んだ。共産党との連立政権を組んだ経
 過もある左派エスエル。議会勢力四分の一の共産党
  詳しくは承知していないので、論評は学者に譲るとして、ぼくは逆に、
 「社会主義(革命)に於ける複数主義の可能性」という、誰もが(?)持ち
 続けている課題を、学生気分で考え込んでしまった。(以下Webに続く)
 
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●映画アンケート結果公表2009
  http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/filma08.html

  
<転載は、ここまで>-----------------------------------------------