Web評論誌『コーラ』15号

毎回紹介している『コーラ』の新しい号が発行されました。
今号では、前回からはじまった「現代思想を再考する」という企画の第二回として、私が文章を書かせていただいてます。
現代思想」が流行した時代(読んだのは、そのごく一部でしたが)の雰囲気を思い出したりして、書いていて楽しかったですし、また自分なりに発見もありました。
拙い文章ですが、お読みください。


(以下、メールより転載)

 ■■■Web評論誌『コーラ』15号のご案内■■■

 ★サイトの表紙はこちらです(すぐクリック!)。
  http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/index.html

  ●現代思想を再考する2●
  ヘーゲルの「不在」が意味するもの――記号と埋葬1
 
  岡田有生(コメント:広坂朋信)
  http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/gendaisisou-2.html
  前回のおさらいから始めたいのだが、掲載されたST氏の論文では、
 デリダの諸論文における「継承」のテーマの内容が整理され、そこ
 では「現在の同一性への閉塞」ということが「継承」を困難にする
 のだという認識が提示されていることが語られていた。
このアポリアは、まさに先程私たちが見た現在の同一性の閉塞で
あり、隔たりを解消しようとする継承の考え方である。つまりこ
アポリアを私たちは継承の問題として読むことができる。すで
に構成された点的瞬間の幅を持たない現在(そしてその継起とし
ての時間)を想定すると、未来は未だ存在しない非−存在者とし
て、あるいは絶えず点的現在に引き戻される(隔たりの解消)べ
きものとして考えられ、現在の閉塞に陥り、結局未来への継承が
不可能になる、あるいは時間は存在しないものとなる。
  また、この「現在の閉塞」は、デリダが取り組んだ西洋の形而上
 学の文脈においては、「意味」の支配と呼べるものに結びついてい
 ること、それは存在者のみならず「存在」という概念を「現前」と
 して扱う態度(ハイデガーを指す)にも深く関わっているのだという、
 デリダの考えが示されたのである。
  このように整理されるデリダの考えは、たとえば「記憶」という
 事柄については、次のように表現できるものとされる。
 (以下、Webに続く)

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  ●新連載〈心霊現象の解釈学〉第2回●
  単なる経験の範囲内における心霊現象

  広坂朋信 
  http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/sinrei-2.html
  前回、カント『視霊者の夢』について面白おかしく書くつもりが、
 東日本大震災の衝撃にうろたえて中途半端なものに終わってしまった。
 幸い挽回の機会を与えられたので、今度こそ面白おかしく書こうと構
 想を練り始めた矢先、まことに私的な事柄で恐縮だが、長い付き合い
 の大切な友人の訃報が届き、それに私はすっかり打ちのめされてしま
 って、それからしばらくは悲嘆にくれるばかりで何も手をつけられな
 かった。半年ほどたった頃、ようやく黒猫編集長との約束を思い出し
 てキーボードを叩きはじめたのだが、どうしても喪の気分が抜けず、
 またもや面白くもおかしくもないメモを提出することをお許し願いた
 い。(以下、Webに続く)

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  ●連載:哥とクオリア/ペルソナと哥●
  第19章 哥の現象学あるいは深読みの愉悦
  ──ラカン三体とパース十体(急ノ参)  
 
  中原紀生
  http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/uta-19.html
  前章で、佐々木中著『野戦と永遠』から、その一節を孫引きした
 中井久夫氏の「「創造と癒し序説」──創作の生理学に向けて」
 (『アリアドネからの糸』所収)に、「文体の獲得」なしに創作行
 為はなりたたないと書かれています。
《なぜなら、まず、文体の獲得なしに、作家は、それぞれの文化
の偉大な伝統に繋がりえない。「文体」において、伝統とオリジ
ナリティ、創造と熟練、明確な知的常識と意識の閾下の暗いざわ
めき、努力と快楽、独創と知的公衆の理解可能性とが初めて相会
うのである。これらの対概念は相反するものである。しかし、
その双方なくしては、たとえば伝統性と独創性、創造と熟練なく
しては、読者はそもそも作品を読まないであろう。そして、「文
体」とはこれらの「出会いの場」(ミーティング・プレイス)で
ある。》
  中井氏はつづけて、二十世紀後半の文学の衰微は、「文体」概念を
 「テクスト」概念に置換したことにある(「それによって構造主義
 既成テクスト…の精密な分析にすぐれる一方、第一級の文学を生産す
 るのに失敗した。」)とし、また、無意識は言語のように、あるいは
 言語として組織されているというとき、ラカンが言語をもっぱら「象
 徴界」に属するものとして理解していたことを惜しみ、さらに、文体
 獲得の後にはじめて、言語は作家のなかで四六時性をもつことになる
 のだと論じ、そうして、あらためて「文体」とは何かと問います。
 (以下、Webに続く)

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  ●連載「新・玩物草紙」●
  声/黒い靴

  寺田 操
http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/singanbutusousi-5.html
  人は誰もが現実社会で起こる出来事とは無縁に生きられない。津波
 地震原発と、春3月の未曾有の東日本大震災においても、誰もが圧
 倒的な現実の凄さに打ちのめされながら、声を、言の葉を求め、発語
 へと突き動かされた。圧倒的な力を発したのは、繰り返し繰りかえし
 流れた金子みすゞの童謡詩《こだまでしょうか、いいえ、誰でも》や、
 宮沢章二《心は誰にも見えないけれど/心遣いは見える》などのAC
 公共広告。また、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」、和合亮一のツイッタ
 ーでの《放射能が降っています。静かな夜です》「詩の礫」。
  なにげなく過ごしてきた日常がとつぜん断ち切られ、非日常へと呑
 まれていくことは、1995年の阪神淡路大震災で体験したのだが、
 津波の映像を見て怖くて泣いた、身体が震えた。三陸海岸の地図が、
 目に見えない放射能が夢のなかまで追いかけてきた。
 (以下、Webに続く)