中国とどう向き合うか

雑誌『オルタ』の新号が届き、今回は「自由と民主化の神話」という題の特集が組まれているのだが、巻頭の的場昭弘丸川哲史両氏による対談を、たいへん面白く読んだ。
http://www.parc-jp.org/alter/2009/alter_2009_11-12.html


そのなかで、とくに考えさせられたのは、中国の現状についての、丸川氏の次のような言葉である。

だから中国の問題を理解するためには、チベット問題にせよ言論の自由にせよ、中国社会に固有の背景や、列強が長期にわたり中国の主権を侵し経済建設を行ってきた歴史を踏まえないと、殆ど意味をなさないと思ってしまうんですね。(p12)

中国の言論界にも、西側の人権主義について、ある種の異議申し立てがあることを指摘しておきたいと思います。たとえば海外から中国への工場移転の話は、およそ人権や環境と対極的な工場を中国で操業して、従業員が労働争議を起こすことが頻繁にあるわけです。そういうところで人権問題を中国へと輸出する構造が、八〇年代から九〇年代にかけてグローバリゼーションとして大規模に展開してきたわけですけれども、中国の側から見れば押し付けられているという視点にならざるを得ない。人権や環境といった価値の尊さとは別に、それがどういう力関係の下に展開しているのか見極めることが重要で、先進国のNGOが、持つ硬直化した視角については、いったん洗い直す作業が必要だと思うわけです。(p13〜14)


急速な経済発展による環境破壊や労働問題、政治的な人権問題、またこの対談のなかでも丸川氏によって紹介されているアフリカ諸国などでの中国の進出による現地の人々の苦しみ、そして自然破壊、さらにはチベットウイグルの問題など、中国についてのネガティブな情報に触れる機会はたいへん多い。
そうした情報に接したとき、いつもある種の葛藤を感じる。
その大きな理由は、ここで丸川氏が述べているように、中国が体現している矛盾が、歴史的には日本や欧米諸国による侵略や植民地化(ソ連による圧迫を加えてもいいかもしれない)の被害や脅威と切り離せないものであるということ、また同時代的には世界経済のシステムのなかで、いわば日本や欧米など「先進諸国」の経済の歪みを押し付けられるようにして中国に生じているという部分が、あるに違いないからである。
私は、過去における侵略の被害への真摯な反省も、現在の平和のための和解への努力も不十分である国の国民(有権者)として、また先に経済発展を成し遂げ今も世界経済の支配的なグループに属する国の一員、消費者としても、中国によるさまざまな弾圧や抑圧や破壊や搾取といった事柄を、他人事のように非難することは正しくないと感じる。
ましてやこの国では、中国への批判的な意見は、「嫌中・反中」の右派的・保守的・ナショナリズム的な言説(それらのなかには、ひと括りに棄却できないものもあると思うが)に容易に接近しやすい、利用されやすいということも事実である。そのことがなおさら、中国を批判することを私にためらわせる。



だが同時に、そうした中国の矛盾や悪に目をつぶることは、結局はそこに体現されているわれわれの社会自体の矛盾や悪にも目をつぶるということになるから、それを批判しないでやり過ごすことは、なおさら正しくないであろう。
端的に言って、たとえば被害に苦しんでいるアフリカの人に向って、「中国にはこういう事情があるので我慢してください」などと言うわけにはいかない。
そのように穏便に言うことで温存されるのは、結局われわれ自身の「豊かさ」でもあるのである。
また、「日本が中国にやってきたことを考えれば、われわれは中国を批判できる立場にはない」として、中国の人々自身がその過ちに気づいて修正するのに任せるという態度も、やはり欺瞞的なものに思える。
もちろん、どんな態度をとっても「欺瞞」は残る、いや正確に言えばわれわれが自分の手を汚しているという事実は残るのだが、こういう理由をつけて「批判することの責任」の回避(棚上げ)を正当化することで、どこかスッキリしてしまうのが良くない。


われわれが現在の中国を批判することは、同時にわれわれ自身の中国に対する罪過と責任を自覚することを伴わなければ、現実的な意味を持たないだろう。
それは、やましさを引き受けながら批判していく、ということである。
このことの重苦しさが、私に中国への批判をためらわせるのだろうが、それを引き受けて乗り越えていかなくては、われわれの生きているこの現実を撃てない。
また、それを回避したところで行われるどんな批判も容認も、「反中」的な言説のなかのもっとも強いもの(愛情と紙一重のもの)に対抗できないのではないかと思う。


たとえばチベット問題や、経済発展にともなう労働問題に関して、「中国政府はすでにグローバル経済の構成者になった」という観点から、こうした自己の歴史性への意識なしに行われる中国への批判というものも散見された。
だがそれは、上の引用文で言われていた「先進国のNGO」にとっての「人権」の代わりに、「反グローバリズム」という錦の御旗を持ってきただけのことである。
そこではいずれも、自己と中国との歴史に関わる重苦しさが引き受けられていない。やましさが、引き受けられていない。


われわれは中国を批判すべきだが、それは、あるやましさの引き受けをともなって行われるべきである。
われわれはこのやましさの中に、少なくとも現状では踏みとどまるべきだが、それは「批判する責任」を回避しない仕方で踏みとどまるのでなければならない。


引用した対談のなかで、丸川氏は、これと隔たった認識を述べてはいないと思う。
実際、引用した発言は、中国の批判すべきところを批判していくということと、矛盾するものではないであろう。
だが、実のところは、よく分からない。
ただ、私はこう考えたということを、ここに書いたのである。