不道徳の源泉

27日土曜日の深夜から28日の未明にかけて、NHK総合テレビで数時間にわたり、解説委員総出演の番組『特集・双方向解説・そこが知りたい』というのをやっていて、その前半部、不況や雇用の危機などの経済問題を主に扱った中の、そのまた一部分だけを見た。
たいへん、力の入った番組であると思い、感心した。


ひとつ面白かったのは、リアルタイムで視聴者から送られてくるメールやファックスによる意見・質問が随時紹介されるのだが、スタジオの一隅に陣取ってパソコンの画面を睨んで意見を集約してるのが、「裏方」の人ではなく、全員テレビでよく見る解説委員の面々だったこと。
あれは、今田耕司司会の「ケータイ大喜利」のスタイルそのままだが、「投稿」を選んでるのが、放送作家などの裏方ではなく、出演者でもある解説委員の面々なのである。
これは、職域を飛び越えて、前線に出てきてるという本気度が伝わってくるようで、面白い絵になっていた。


討論をしている委員の人たちは、それぞれに専門性の高さと分かりやすさを兼ね備えた語り口で、論点を多くの人に理解してもらうという意味では、いい番組になってたと思う。
とくに良かったのは、進行役の人で、名前を忘れてしまったのだが、以前「ニュース9」のキャスターをしていた、たぶん解説委員のなかでも一番偉い人である。
この人は、手元に集まってくる視聴者の意見からのチョイスがたいへん的確だった。


委員たちの議論は、大枠では、今回の危機を契機として、社会や経済のあり方を、人間(労働力)をたんなるコストとして考えてしまうようなものから、別のあり方へと切り替えることを模索すべきだ、という線で一致していた。
もちろん、大枠ではぼくも同意見だが、そのように表面上まとまりかけたところで、この進行役の人は、「リストラをしなければ企業は生き残れないのだから、企業の首切りを批判するのはおかしい」とか、「マスコミは、なぜ貧困層に軸足を置いて持ち上げるような報道ばかりするのか」といった、委員の間での予定調和的な結論を揺るがすような意見を拾って、それを個々の解説委員にぶつけていた。
そういう声を紹介して、委員たちにぶつけることにより、この番組は生きたものになっていたと言える。


ぼくはこう思うのだが、たとえば、「マスコミは、なぜ貧困層に軸足を置いて持ち上げるような報道ばかりするのか」という意見は、「持ち上げるような」という部分がポイントであり、つまり実際には普段から企業や国の行政の側に立った番組作りや報道しかしてないのに、そのアリバイみたいに「弱者を救え」みたいな論調を、ニュースのときだけ急にとっている嘘臭さを、非難したいのだろう。
本気で、社会や経済のあり方を変えること、変えさせることに、あなたたちは取り組む気があるのかという、問いかけのようなものだろう。


たとえば、一方で派遣労働者のリストラをはじめ、雇用の危機が言われているのに、一方では介護の現場や農業の生産現場など、たしかに人員不足の現場がある。そして、どちらの現場でも、生きていくための最低限の保障をされていない人たちが大勢居る。またそうした人手不足のために、生きていくために必要なサービスなど財を得られない人たちが、社会のなかにたくさん居る。
こうした状況は、社会のあり方としてはうまく行っていないと思われるが、それを改善していくために、市場原理だけでは、うまくいかないであろう。そこでどうするかを考えると、現行の制度の緩やかな改革(それも重要ではあるが)だけでなく、どこかで根本的な制度、社会のあり方の変革が必要なはずだ。
要は、そういうところまで踏まえて(覚悟して)、現状に対する批判や、変革への提言を行っているのか、ということである。


実際、ぼくが見た印象では、これらの質問に、十分に答えられていた委員の人はいないように思えた。ぼくがその立場でも、答えられなかっただろう。
だが、そういう問いによってこそ、議論が深化するということがあるはずだ。
そこを自らに問い直す契機を、出演者・関係者や視聴者に投げかけたということだけでも、この番組は生きたものになったと思う。


このほか、視聴者の声として、「国民総ゼネストか、一揆でも起こしたい」といった声や、「今のような社会崩壊のもとを作った小泉元総理がなぜ糾弾されないのだ」といった意見が紹介されてたことも、NHKの番組では異例だったろ
う。



また、腹の立つ委員の発言もあった。
個人レベルの基本的な道徳、たとえば音楽を聴きながら自転車に乗っていて、周囲の人や車にまったく注意をはらわないだとか、電車の中で席を譲らなかったり傍若無人な態度、また「クレーマー」の問題などを例に挙げて、そういうレベルの「社会崩壊」の方が、貧困や雇用崩壊のような社会の危機よりも、よほど深刻な問題だ、という人があった。
これはおかしい。


個人が道徳的に振舞うような余裕をなくしているのは、基本的には貧困を生み出し、また放置するような社会制度の側に原因がある。
政治家や財界人、そして大マスコミの人間などが、貧困を放置し、自分たちの利益・権益のために弱者を切り捨てることを当然のこととした上で、それを正当化するために、「社会の混迷」の原因を、孤立させられ取り残された個々人の責任に帰して平然としているような社会ほど、不道徳な社会はない。
人間と人間の命に対するこの軽視、否定、否認こそが、社会全体に不安や暴力を蔓延させ、人々の心を殺伐とさせているのだ。


貧困の放置こそ、いまや内政問題に関しては最大の不道徳であり、またあらゆる不道徳の源泉のなかでも最大のもののひとつである。
こうした根本的な「不道徳」を正していくことこそ、後の世代に対する、われわれの責任なのだ。
われわれの(人間としての)根源的な怒りは、こうした使命の遂行にこそ、向けられるべきなのである。