『エリザベス・コステロ』

 

 

この本の原著の出版は、今から21年前の2003年。この邦訳書は19年前の2005年となっている。だが、今年書かれたものだと言われても違和感がない内容だ。自分の生きる時代を見とおす作者の力量に、あらためて驚かされる。

主人公は高齢の女性作家である。クッツエーの小説で女性を主人公にしたものとしては、僕が読んだことがあるものにはリアリズム手法の力作『鉄の時代』がある。

そちらのヒロインは、アパルトヘイト政権末期の南アフリカで内戦の混乱の中に投げ出される末期癌の高齢独居白人女性という何ともハードな設定だったが、本作の主人公エリザベス・コステロは、同じく高齢の白人単身(別れた夫たちとの間に子どもたちが居る)女性ながら、故国のオーストラリアを拠点として世界中を講演や授賞式のために旅して回っている有名作家という余裕のある境遇だ。

この主人公は作者の分身のようにも見えるし、批判者もしくは敵のようにも見える。そのことは、後年の作品で彼女が登場する『遅い男』になると、よりはっきりするだろう。ともかく、男性作家クッツエーは、女性作家コステロを単純な他者として描いているわけではないのである。

幾つかの章を紹介しよう。

 

 

「悪の問題」で扱われるのは、創作において、作家(表現者)はこの世界の絶対的な悪というものを探り出して表出することが許されるか否か、という問題である。コステロは、この問いには否定的だ。作者自身の魂が、そのような絶対的な悪には耐えられず、悪に呑み込まれてしまう、作家の魂は無傷では帰ってこれないと彼女は考える。ここで実例として挙げられているのは、実在の作家ポール・ウエストが書いたとされる小説の一節で、そこではナチスの死刑執行人による極めて「悪魔的」な振る舞いの描写が迫真的になされている。それを読んだコステロは、いやらしい(obscene)としか表現しようのない感覚に襲われる。

 

『“いやらしい!”そう叫びたかったが、誰にこのことばをぶつけるべきかわからないのでやめた。自分自身にか、ウエストにか、こんなことが起きるのを一部始終平然と眺めていた天使の監視団にか。こんなことはあってはならないから、“いやらしい”のだが、起きてしまったなら、人の正気を保つには、世界中のその手の場所でそうしているように、事を白日にさらすことなく、しっかりくるんで、こんりんざい地の奥に隠しておくべきだから、二重に“いやらしい”のである。(p127)』

 

 

このような事柄は、実際にあったことであり、あるいは人間と歴史にとっての真実と呼べるものであり、作家がそれを表現しなければ、その真実は伏せられたままになってしまうだろう。それでも、それは隠されておくべき事柄だと、コステロは考えるのだ(それが出来るのならば)。

その当否は、僕には判断しようがないのだが、ここには現在の世界に対する作者の危惧が表明されていると見ることができるだろう。

また、クッツエーにとっての「他者」が姿を現すのは、たとえばこの章の終わり近くの次のような一節だと思う。

 

『処刑後に彼らの体を洗う者もない。それは、遠い昔から女の仕事だ。地下室での活動に、女っ気はない。女子禁制。男子のみ。とはいえ、すべてが済んだのち、夜明けがばら色の指で東の空を染めるころ、女たちがやってくるのだろう。ブレヒトの戯曲から抜け出てきたような、あくなきドイツの清掃婦たちが仕事にとりかかり、汚れものの後片づけをし、壁を水洗いし、床をみがき、何から何まできれいにする。仕事が終わるころには、ゆうべ男の子たちがどんな遊びをしていたかなど、思いもよらぬ状態になっている。(p154)』

 

 

ここを読んで、クッツエーが最も似ている先輩作家はブレヒトかも知れないと思った。

また、「エロス」で考究されるのは、神と人間とのセックスはいかにして可能かという、一風変わったテーマだ。

 

『神は人に死を運命づけることで、自分たちより優位に立たせることになった。不死の神と死すべき人間の二者のうち、どちらがより切実に生き、より激しく感じているかといえば、それは人間のほうだ。だから、神々は人間のことが頭を離れない。人間なしにはやっていけず、ひっきりなしに人間を観察して餌食にする。だから、結局は、人間とのセックス禁止を宣言せず、どこで、どんな姿で、どれぐらいの頻度で、というルールを決めるにとどまったのだ。死の発明者は、セックス観光の発明者ともなった。人間の性的エクスタシーの中には、死への戦慄があり、その倒錯、その安らぎがある。飲みすぎた神々はそれについてえんえんと話をする―最初に経験した人間の相手は誰か、どんな感じだったか。あの真似のできない小さな震えが、神同士のセックス・レパートリーにもあれば、交わりにもピリッとした味わいが出るのに。ところが、その代償は彼らには大きすぎる。死、消滅。復活がなかったらどうなるんだろう?神々は考えて不安になる。(p162)』

 

 

ここでもやはり、テーマは非常に現代的なもの、現代における生と死といった事柄だと思える。

「門前にて」は、題名から想像されるようにカフカ作品の戯画のような不条理な状況(夢、あるいは死に際なのか?)に置かれたコステロが、超自然的ながら威厳に欠ける審判者(裁判官)たちから「おまえの生涯の信条を述べよ」と問い詰められる話だ。そう問われてコステロは、作家である自分は「目に見えざるものの秘書」であり、どんな信念とも信条とも無縁に、ただ自分が聞き取ったものを言葉にしてきただけだと主張する。これは、一切のイデオロギーの拒絶とも、あるいはロゴスの否定とも捉えられるだろう。だが、話の終盤になって、ある登場人物(ポーランドの清掃婦を思わせる女性)から、信じないという態度がとれるのは贅沢だと言われ、裁判官たちの前では何かを信じているという演出をする「情熱」を見せるだけで納得してもらえるのだと、アドバイスされる。

そう聞かされたコステロが、自分の幼少期の思い出、オーストラリアの干潟に生息するちっぽけな蛙たちのことを弁論する場面は、感動的である。

 

 

『なぜでしょう?なぜなら、本日みなさんの前に立つわたしは、作家ではなく、かつては子どもであったひとりの老女だからです。そういうわたしが、幼いころをすごしたダルガノン河の干潟と、そこに住む蛙の思い出を語っているのです。わたしの小指ほどしかない小さな蛙もおりました。あまりにちっぽけで、あなた方の高尚な関心事からはあまりに遠く、ふつうなら耳になさることもない生き物です。わたしの話につたない点が多々あるのはご勘弁いただくとして、蛙の生涯などと言うと、寓意的に聞こえるかもしれませんが、蛙にとってみれば、これは寓話でもなんでもなく、自身の生涯そのものなのです。唯一の。(p197)』

 

 

ここには、西洋にとっての「他者」が見出されているように感じるのは、僕だけだろうか。