普天間移設・「連立の意義」と「橋下発言」

このところの国政をめぐる報道を見ていて、思うことがある。


経済政策や予算編成をめぐる国民新党の亀井大臣の発言、また普天間基地移設問題をめぐる社民党の閣僚や議員による発言について、「連立が揺れている」という風に、何かよくないことのように言われる。
鳩山首相をはじめ、民主党の政治家たちが、それに「振り回されて」国政の進行に遅れが生じたり、対米関係なり市場政策なりに不安が生じてきている、というのである。
キャスターの木村太郎などは、「少数政党の意見に、連立政権がこれほど振り回されることはおかしい」と公言してはばからない。


つまりは、連立といっても、圧倒的に多くの有権者の信任を得たのは民主党であるのだから、そこにこそ「民意」は代表されてあるのであり、少数政党である連立党は、その「多数の民意」のスムースな政策への反映の邪魔をするべきではない、といった考えがあるのだろう。
ここには、「二大政党制」こそあるべき姿であり、現行のような連立政権は、やむをえぬ補完的な措置である、という発想が透けて見える。
だがこうした考え方は、連立政権というものの意義をはなはだ消極的にしか捉えていない狭い発想であるだけでなく、民主主義政治の本質を根本的に理解していないものだ。


思うに、民主主義政治、議会政治の本質は、(有権者の)多数意見の実現、という「数こそ正義」の論理にあるのではない。
それならば、そもそも議会の議事というものは必要がない。国会を召集して、ただちに採決に入り、数分で全ての政策や法律は決定されるであろう。
わざわざ議会を開いて論議・審議を行っているということは、そこで、代表された多数意見と、代表された少数意見とがつき合わされ、「よりよい政策」への漸進的な接近が図られる、ということである。
つまりは、「多数意見」として総括されて見なされているもののなかにも、また実際に多数の有権者によっていったん支持されたものであっても、そこに「よくない」要素が発見されるなら、再審に付され修正されていくということ、そのための場として、民主主義の議会というものは在るのだ。


そう考えると、多数党と少数党による連立政権というものは、むしろ議会制民主主義にとって、その本質にかなう、理想に近い形態である、ということが分かる。
そして、それがその「理想」への近さを維持するためには、「これこそが大事」と、それぞれの少数党が真剣に思う政策を、覚悟をもって主張し、連立政権の内部で、多数党に対して激しく突きつけていくということ、そうした衝突的な交渉こそ肝要なのである。
社民党の福島党首が行っているように、「連立離脱」というカードを使ってでも、多数党と多数意見の「横暴」に歯止めをかけることは、まったく民主主義的な態度だ*1


そもそも社民党の連立参加がなければ、沖縄の基地の問題が、これほどの政治課題になることもなかっただろう。そのことだけでも、少数政党の存在と、その政権への参加には、その政治理念が信念を持って維持されるなら、小さからぬ意味があることが分かるのである。


実際、連立政権には、このような多数党にとっての「ままならぬ」要素があると知っているからこそ、小沢一郎は、次の参議院選挙こそを「本当の勝負」と見すえ、両院での単独過半数による「安定した」政権運営を狙うのだろう。
その意味では、小沢の真の敵は、決して自民党ではない。


いま、とくに普天間の問題についてみるなら、社民党国民新党は、その理由こそ違え、辺野古への新基地建設を不可避のものとする民主党内の「県内移設」論に異議を呈していることは、筋の通った態度と思えるものである。
社民党については、そもそも護憲を理念として掲げているのだから、基地の撤去や、基地をこれ以上増やさないことを主張するのは、党の存在意義の根幹に関わる事柄だろう。
その意味では、(護憲という主張の国内主義的な性格から考えて)グアムへの移設問題は別にして、「県外移設」という、「国内の基地の総数を維持する」プランを進めようとしていることは、本当をいえば、首をひねらざるをえないことではある。そして無論、さらに本当をいえば、地球上のどこであっても、基地を建設・維持させることにつながるような主張は、本筋とはいえないだろう。
だが同時に、現状においては、過重な負担がかかり続けている沖縄への、さらなる負担の継続、さらなる環境や地域社会の破壊につながる「県内移設」案だけは阻止せねばならないはずだから、「県外移設」という主張が最終ラインとして出てくることは、十分理解できる。
また一方、国民新党についていえば、これ以上沖縄だけに負担をかけ続けているようでは、堅固で「健全」な国民国家はもはや成り立たないだろうという考えは、国民主義の立場においては、まったく筋の通った考えであろうから、この立場から「県外移設」を主張するということも、(ある意味では)社民党以上に理解しやすい態度だといえるのである。


いずれにせよ、これらの主張は、とりわけ社民党にとっては、それを取り下げるなら連立に参加した意味がなくなると思えるほどの、重大な線である。
ここでとことん突っ張る、揺さぶりをかけるということは、議会制民主主義を是認する立場に立った上で言うなら、まさしくこの制度に「生命」を与えるものだとさえ言えるのだ。
こうした「混乱」や(場合によっては)「破綻」を、議会政治の歪みや逸脱と見る人は、民主主義の形は知っていても、その命を知らない、信じる力もない人たちである。




普天間の移設問題に触れたので、注目を集めている、この発言についても少し書いておこう。
http://mainichi.jp/select/seiji/news/20091207k0000m010107000c.html


橋下という人は、知事就任直後の「差別はなくなっていない」発言もそうだが、今回の『「沖縄には地上戦で多大な負担をかけた。本州の人間は配慮しなければ」』という風な、言い方を時々する。
上の発言は全体としては、「国民それぞれが、応分の負担を」といった国民主義的な発想を感じさせるが*2、前半部には、社会のなかでの差別や不平等といったものへの批判的な感覚が表明されているとも捉えられよう。
そしてぼくは、こうした彼の発言が、狡猾であるとか、口からでまかせであるとか、あるいはたんにまったく空虚である、という風には思わない。
それは皮膚感覚的な淡い実感を、深い考えもなしに口にしただけだろう。そしてそのこと自体は、否定されるべきもの、否定してしまえばそれですむようなものではない。
むしろ、このネオリベ主義者の青年の「軽々しい感覚」、「軽々しい言葉」は、市民社会や支配層に対して、ある鋭さ(毒)をもってさえいる。


だが、そうしたものは、簡単に支配的な現実にとりこまれて無害化されてきたし、橋下のようなネオリベ主義者の場合には、なおさらそうである。
彼のこの皮膚感覚は、それ自体は「純粋な」ものであり、それゆえに多くの(貧しい)庶民や若者に「共感」される質をもち*3、だからそこに肯定的な要素は何もないと言って切り捨てること自体「罠」にはまってしまいかねないような性質のものなのでもあるが、しかし、それは橋下自身のネオリベ的な発想を揺るがすような要素は何も持っていないがゆえに、他人にのしかかる差別や貧困や戦争の痛みという風なものに届くには、あまりに無力なのである。
言い換えれば、この「毒」は、支配的な現実の「中枢」には決して届かない。


橋下の「関空米軍基地移設構想」は、それが「現実性」があるとかないとかいうブルジョア的な言説のいかんには関係なく、彼の「カジノ構想」と同じネオリベ的・効率主義的な意味合いしか持つことが出来ない。つまり、経済効果や関空のプレゼンスの増大ということを実際的な目標としながら、その口実として「沖縄への負担の解消」や「国民の国防上の義務の同等の負担」という新国民主義的な発想に訴えつつ、結果としてはアメリカの軍事力の強化と日米同盟の維持という大きな支配的現実に貢献するにとどまる。


彼は、米軍基地が人々の命や生活を危うくするものであるから、沖縄の基地を大阪に引き取ろうといっているわけではないのだ。
もしそういう重みが彼の発想のなかにあるのなら、基地の危うさを問題にするこの考えは、自身の弱者切捨て・ネオリベ的な府政のあり方への反省を伴わないはずはない。
ところが彼は、一方では経済のために弱者の首をしめながら、一方で差別や不平等の是正を「純粋な」本心として口にする。彼のこの「本心」は、支配的な現実の壁を破ることは出来ないのである。


もし橋下の言葉が、ほんとうに深いものとして発されたのであるなら、それは、「私は基地の存在を自分(の生命)にとって容認できないものと考えるが故に、他人(沖縄)にとっても基地の存在することを容認しない。」という風に論理が進むはずだ。
つまり、自分の生命に根ざしたところで軍事基地(戦争)の存在が否定され、それゆえに他人(沖縄)への基地の押し付けを不当と判断する。
それなら、基地の存在そのもの、日米同盟そのもの、アメリカの世界戦略そのものへの明確な批判なしに、基地という存在を、(たとえば関空という)特定の場所に受け入れよう、建設しよう、維持しようという発言が、軽々に出てくるはずはないのである。


それなのに、軍事的・政治的な現状を容認しながら、今回のような「基地受け入れ」発言が(たとえ主観的には「真剣」なものであっても)出てきているということは、それが当人の生命に根ざしたもの、自他の生命に対する深い思いから発されたものでないことは、明白なのである*4
この「公平」への感覚には、根が欠けている。だからそれは、現実の巧妙な壁を突き破って、他者の苦しみに到達することも、また出来ないのである。

*1:ついでに言えば、かつて自民党と連立与党を組んでいた頃の公明党にも、こうした「歯止め」としての役割が期待されていたはずである。

*2:蛇足ながら、こうした「新国民主義的」ともいえる発想は、「沖縄以外も基地を引き受けよう」という意見だけでなく、もしアメリカが強く望むのであれば、当然「沖縄にその義務を(何らかの見返りと共に)果たしてもらう」という意見にも、容易に転化するはずだ。

*3:この意味で、今回の橋下の発言は、「現実性」のないものだとは、ぼくは考えない。むしろそれは、非常に現実的な危険をはらむものである。平和運動がこの危険に対抗することは容易ではないだろう。

*4:上記にURLを引いた毎日の記事のなかで、沖縄出身の方たちが述べておられるのも、そうした意味のことではないかと思う。