二つの政権

じつはぼくもまったく気がつかなかったのだが、鳩山首相が沖縄を訪れて人々の憤激を買った23日は、盧武鉉(ノ・ムヒョン)前韓国大統領の一周忌にあたる。
比べることも故人に失礼だが、それでも今の(そしておそらく今後の)鳩山政権が置かれている位置は、前大統領の政権がその末期に置かれていた状況を、ある意味で思い出させるところがある。
そのことを書いておきたい。


前大統領の政権末期というと、後に検察による追及(その政治的背景については、今も論議されている)を受けて自殺の遠因になったともされる金銭にまつわる疑惑の問題が既に大きく取りざたされていたかどうか、そのへんが記憶が曖昧なのだが、とにかく内外の政策に関して多くの国民、とりわけ元来の支持層だった(反米的でもある)市民運動勢力から政策に関して愛想をつかされるような形になり孤立していった、という印象が強い。
とくに大きな出来事は、農産物輸入自由化や雇用・労働問題に加えて、平澤への米軍基地移転をめぐる問題などであった。
市民運動出身で、そうした層の人たちを中核として支持を集め、大統領になった人だったが、あの国が現実に置かれている状況、つまりとりわけアメリカの政治的・軍事的支配力ということだが、そのなかで思い描いたような独立的な政策をとるということは、やはり難しかった。
そのことが支持の中核であった市民運動的な層の離反を招き、それによる孤立が、アメリカとの協調を強めることによる政権基盤の強化を余儀なくさせ、そのことでさらに運動圏の離反を強め・・・・。
そんなに事情に詳しくないのだが、おおむねそういった経緯だった印象がある。


ひと言でいうと、「アメリカの支配からの独立」ということを望んでいた、中核的な支持層の思いに応えられなかったことで大統領が拠り所を失い、政権の力が弱まっていった。
こうした政権への失望の「思い」は、当時実際、何人かの(運動圏に近い)韓国人から聞くことがあった。
そして結果としてもたらされたのは、非常に親米的(この国の元々の支配体制に戻ったということだが)でネオリベ的な性格の新政権が、「理念」による求心力の核(希望、と言い換えてもいいか)を失った大衆の「気分」に乗じて誕生したことだった。
それがぼくの、大枠の見方である。


さて、もちろんこの状況と、日本の現政権の状況とがすっかり同じだなどと言うつもりはない。
第一、それではあまりに亡くなった前大統領に失礼だろう。
韓国の政治指導者がアメリカの意向に逆らうことの困難は、日本の指導者のそれの比ではないはずだ。
鳩山の妥協や「裏切り」を(それが最終的なものになるなら)、盧武鉉が直面した困難と比べることは許されまい。
それに、日本はまた、韓国ほど軍や右派勢力が頑強な国というわけでもない。保守層のなかにも、平和主義的な意見を表明する人は(どこまで信頼できるかは別にして)少なからず居る。もっともその「意見」の結果が、今回の鳩山の「決定」だと言われればそれまでだが。
さらにもっと重要なことに、盧武鉉を政権に就かせた民意と、民主党政権を誕生させた民意とが、同じ質のものだとも言いがたいであろう。付け加えれば、双方を支える社会運動の質にも、異なるところがあるかも知れない。


だが、そうした違いにも関わらず、ここには見逃せない共通性があると思う。
きのうも少し書いたことだが、日本と韓国では、これまで権力を維持してきた人たちの層はだいたい同じだと考えられる。
その特徴は、植民地統治時代の権力構造、富の構造を土台にしている部分が大きいということと、その構造が戦後のアメリカとの従属的な関係のなかで保持されてきたということだ*1
この構造を崩すような動き、それはある段階においては民主化政権交代という形をとるわけだが、それが起きた場合、この構造、そしてそれに結びついた関係(権益)を手放したくない側がやることというのは、政権交代の原動力になった(曲りなりにではあっても変革や解放をもとめて政権を交代させた)「民意」を、政権から離反させるということだと思う。
韓国の例から分かるように、これは支配しようとする(変革を阻もうとする)側にとって不都合な政権を弱体化させたり、自分たちに頼らざるをえないものにさせると同時に、「民意」から「危険」な変革への欲望(希望)を奪い取って、構造内的な変革(ネオリベ)への願望に置き換え、いわば自分たちにとって「無害」な欲求に変えてしまう効果を持つだろうからだ。


そのことのためには、マスコミ(それに検察?)を使って政権へのネガティブな印象操作を行うということもあるだろうが、別の側面でのやり方もある。
それは、人々の変革への欲望を「危険」(支配者たちにとって)な方向に持って行きかねない「核」となりうる社会運動勢力の影響力を、政権から切り離すということである(もちろん、社会運動と大衆との切り離しなら、日本でもとおの昔から画策されてきた。)。
変革へのあいまいな欲望が政権交代を実現させたのだが、その欲望が明確で危険な「意志」へと結実していくための「核」の役割を担いうるのが社会運動なのであり、その影響を政権内部から取り除いてしまえば、後に残るのは「構造」を根本から打ち壊す動機も原動力も失った政権・与党と、「希望」を喪失して日常の枠組みのなかでの改善を(経済的な政策にのみ)あいまいに欲望し続ける以外ない「操作しやすい」大衆の心理だけだろう。
これは、「社会運動」というものを、必ずしも左翼的なものに限定しなくても言えそうなことである。


実際、社会運動との関わりを失った民主党(中心の連立)政権は、アメリカや日本の保守勢力にとっては、ほとんど自民党と変わらないほどに「無害」な存在だろう。
たしかに、日本の場合(韓国でもそうだろうが)、「政権交代」自体に大きな意味があるので(普天間の問題をはじめ、ここ数ヶ月の事態はそのことを立証している)、民主党という政党には特別な期待など持てるわけがない、という主張はもっともだ。
だが、連立における社民党の存在の大きさは別にしても(ここでは、この問題には言及しない)、民主党自体にも、明らかに自民党政権時の政府・与党とは異なる要素がある。
それは、その思想的なスタンスはどうであれ、一定の「民意」にもとづいて活動してきた社会運動出身の人たちが、政府・与党のなかに加わっているということである。
じつはこのことこそが、アメリカと保守勢力にとっては、最大の心配の種なのであり、また、この「政権交代」の重要な意味もそこに現れていると考える。


これら日本の社会運動の目指すもの、そしてその背後にある日本社会の漠然とした「民意」が示すものは、「左翼的」と呼んでいいかどうかは分からないが、ともかくそれは、アメリカや保守勢力を大きく動揺させるほどに強いインパクトを政治(権力)の場に与えたということを、ここ数ヶ月の政治状況と報道の仕方とは証明していると思うのである。
「沖縄の怒り」といま外在化されて呼ばれているものは、じつは潜在的には日本の「民意」の怒りでもある。それが「日本の怒り」となることを恐れて、支配者たちは、必死に現政権のイメージを悪くし、人々の「欲望」を、構造変革の危機から遠ざけようとしている。
また、その「欲望」が構造変革に接続する媒介としての「運動」的なものを、政権から切り離そうとしているのである。
これを政権の問題としてみるなら、いま争われているのは、政権を(彼らにとって)「無害」なものにするかどうか、そのことによって「政権交代」の意義を失墜させ、人々の怒りと希望を「操作可能な」不満という形態のなかへと押し込めるかどうか、ということなのだ。


もしこの争いに支配者たちが勝利するなら、後に残される「民意」のはけ口は、新自由主義的な「改革」と、アメリカの軍事戦略への本格的な組み込みによる軍事力の強化、それに加えるなら排外主義の膨張といったことだろう*2


ぼくは別に、(特に社会運動は)民主党政権を支えよ(批判するな)、と主張したいわけではない。
沖縄のことに限らず、最近の多くの政策を見れば、とてもそんなことを口にする気にはならない。
「裏切り」や、アメリカとの妥協、また大衆へのおもねりに基づく差別的な政策は、断固非難されるべきである。
もちろん、辺野古への「移設案」などは、決して許されるものではない。


ただ、民主党や鳩山の非を憎むあまりに、「政権交代」を望んだ自分たちの(そして多くの人々の)思いを、あまりに意義のないものへと貶めてしまうことは、戦争(事実上の「占領」下での日常的なそれをも含む)と差別の永続化を手助けする結果にしかならないだろうし、そうすることで主要な敵と戦うための場と武器とを、みすみす手放してしまうのはあまりに馬鹿げていると、言いたいだけである。
社会運動は、そして過去と現在の社会のあり方に対して「不満」という一般的な呼び名に還元されえないような感情を持っているはずのわれわれは、その感情を差し向ける最終的な相手を見失ってはいけないし、変革を実現するための「道具」を簡単に手放すべきではない。
それがどんなに役に立たないものに思えても、なんの「道具」もなく立ち向かえるほど、われわれの敵は組し易い相手ではないと思うのである。

*1:韓国の場合には、とくにそれが「南北分断」(準戦争状態の継続)という状況に結びついてきたわけである。日本の中で、もっともこの状況に近いのは、「軍隊」による被害や弊害が現実に日常化しているという意味で、きっと沖縄のそれだろう。

*2:このうちの特に前の二つの思惑は、韓国では不幸な形で具体化されつつある。