NOの深さ

普天間基地の移設をめぐって、少し前まで、徳之島での反対集会の様子や、島の人たちの声がさかんにテレビでも報道されていた。


それを見てると、ぼくも漫然と見てるとついそう思ってしまうのだが、まるで基地建設に反対してる徳之島の人たちが、沖縄の人たちと対立する立場にあるかのような、どうかすると基地を引き続き沖縄に押し付けようとする先鋒に立ってるかのように受け取りがちである。
しかし、そういう発想というのは、報道の仕方としても、また報道を受け取る側の感覚としても、最悪と言っていいものだろう。


徳之島の人たちは、自分たちの島に基地が移設されるという話が持ち上がったことで、基地というものがどういうものかを、否応なくリアルに考えさせられたのだと思う。それは、現実に多くの基地を押し付けられている沖縄の人たちと、同じ状況に立たされたということである。
「基地移設に反対」という島の人たちの声は、この場合、沖縄の人たちと同じ深さから発して、政府やアメリカに向けられているはずである。
町長たちが首相に会ったとき、その一人が、「基地の移設ではなく、軍縮こそを考えるべきだ」と首相に迫ったということは、それをよく示していると思う。


また、沖縄と奄美地方とは、もちろん文化的には大きな違いがあるのだろうが、歴史や地理的な位置においては、日本の統治に対して常に「辺境」のような場に置かれてきた。
基地という軍事的な暴力だけでなく、収奪や差別の暴力ということにおいても、徳之島の人たちは、沖縄の人たちと多くの思いを共有しているのではないかと思う。


「基地」という軍事の暴力や、またそれを不当に押し付けられるという差別の暴力に対する、切実なNOが、徳之島の声であり、沖縄の声だ。
それを利害の対立のように見なすのは、それこそ権力のまなざし、統治の思惑というものだろう。
報道も、それを漫然と眺めているぼくらの視線も、それに同一化して、いわば加担してる。


「基地」がどういうものかを切実に考えれば、なんと言われようとそれを拒むしかないはずだし、のみならず、それをどこか他の土地に押し付けるという考えも、本当は出てくるはずのないものだと思う。
基地を拒むということが、他の土地に押し付けるということになってしまうのであれば、それはそのように強いられてるということ自体が、たいへんな暴力なのだ。
結果として、他人にその(基地という)苦痛を押し付けざるを得ない、そうなりかねないという苦しみを背負って、沖縄や徳之島の人たちは、いま「基地」にNOを言ってるのだ。


いったい、これだけの深い苦しい思いから発するNOを、ぼくたち大半の日本国民は、果たして言えるだろうか、また想像できるだろうか。
ぼくたちの多くが、この「NO」の身を切られるような深さを想像できずにいるということが、沖縄から基地の暴力も、差別の暴力も、依然として無くならない理由だ。


そうした、巨大で根本的な暴力に対する怒りや拒絶の切実さがないところで語られる、安全保障とか、「基地」の公平な配分・分担だとか、沖縄の負担軽減だとかいう言葉の虚妄。


だがそれにもまして最悪なのは、徳之島の人たちのその切実な拒否と怒りの叫びをのうのうと利用する小池百合子のような保守政治家や、「基地」の暴力がどんなものかを考えることもなく(実現可能性があろうがなかろうが)軽々しく自分が首長である土地への「移設」を口にする橋下徹のようなネオリベ政治家たちである。