橋下的なものをめぐる戦いの内実

橋下・大阪市長:職員規制条例「政治活動で懲戒免」 罰則に代え

http://mainichi.jp/area/news/20120621ddn001010011000c.html

これに対し、橋下市長は20日、「閣議決定が『地位から排除すれば足りる』というなら、忠実に従う。(政府は)バカですね。政治活動については原則、懲戒免職にして、ばんばん排除していく」と述べ、7月の臨時議会で「懲戒免職」規定を盛り込んだ条例案を提出する方針を示した。


怖いなあ。
大衆的な人気という事を含めて、実際に大きな政治権力を握っている人間が、公の場で「排除」だのなんだの、それも条例制定を武器にしてそんな暴力的なことを公言し、しかもその言動がまかり通ってしまうという、今のこの社会。
おまけにそれを伝えるメディアの報道はこの通り、別に批判するでもなく、ただ事実を伝えるだけの「客観報道」とかいう奴。その実は、「批判しないことがこの社会では適切な態度だ」という暗黙のメッセージを読み手に送ってることになっているのだ。
権力者(強者)の傍若無人な攻撃的言動と、それを批判せず黙認したりやり過ごすことが社会人として妥当だと言わんばかりのマスコミの報道ぶり、そしてそのいずれに対しても抗議の声をあげないことに慣らされたぼくたち自身の日常、それらが一体となって、「強者には逆らわない」、「弱者には気まぐれに鬱憤をぶつけても許される」、そんな今の社会の雰囲気を作ってるんだと思う。


まあ、橋下氏や維新の会の実力がどんなものか、先般の原発再稼動をめぐる顛末を見てても分かろうというものだ。
この人たちは、日本社会の支配的な層の意志には決して逆らえない。彼らに許された変革(むしろ破壊と呼びたいが)は、あくまで新自由主義とか新保守主義の定着によって利益を保持したいと思ってる層が元来意図していた範囲のことに限られており、その限度を少しでも踏み越えようとすればたちまち潰されてしまう。
その唐突で理不尽な内容と手法にも関わらず、19日に府市統合本部が出した「基本方針」なるものが、その通りに実行されても当初公言されていたもののわずか20分の1の支出削減にしかつながらない内実だという事実も、彼らの実力のそうした非力さを示すものだろうと思う。
橋下氏当人は、そうした特権層から権力を奪い、自分がそれこそ独裁的な権力を握って社会を思い通りに変えてみたいという野心をいくらかは持ってるかもしれない(それも打ち砕かれつつあると思うが)が、迎合してる周りの連中は、旗色が悪くなったらさっさと彼を見捨てるだろう。


そして恐らく橋下氏自身は、そうした自分の「力」の根拠の弱さ、自分が本当の権力を握っている層から見れば取替え可能な「駒」のようにしか見なされていない存在であり、また支持者や追随者と見なされてる周囲の者たちも自分を本当に支えてくれるような勢力ではないという現実を、自覚しすぎるほどに自覚しているだろう。
だからこそ、自分をより強く見せようとして、このような「暴言」ともいえる言動を、メディアに向って繰り返してきたというのが、ほんとうのところではないか。
いわば「つよがり」なのだが、それが自分よりも力(権力)の弱い者に向けられた場合は、文字通りの「言葉の暴力」となるだろう。
一般的に言って、目の前の相手と比べて明らかに強い「力」を持った者が、別の大きな力に対する不安や自信の無さを糊塗する目的で、その相手(弱者)に向って振るう威嚇的な暴力、それはまさしくDV的な行為と呼ぶべきものだ。
そして、いまの橋下氏は、一般の人間から見れば、やはり絶大な人気を誇り、強い権力を持った公人である。
彼の一言で、愚かな連中は、「敵」として指定された人間に攻撃欲を向わせたりもする危険も大きい。つまり、集団によるリンチがそそのかされる危険である。
彼が時として(その直接の相手は女性であることが多い気がするが)テレビカメラのある場所で吐く攻撃的な言葉は、誰もが看過してはならない、致命的ともなりうる凶暴な「言葉の暴力」の行使なのだ。


何より怖いのは、初めにも書いたとおり、こうした政治家の暴力的な言動や「政治手法」が、マスコミによって無批判に報道されることで、そうした暴力や理不尽な圧迫に逆らわないことが現行の社会秩序に適応して生きる方途だという通念を、多くの人たちが抱いてしまうということである。
そうした、強権に対する屈従的な生き方の体得は、自分より弱くて攻撃欲を向けたくなるような相手への暴力の発動を、きっと再生産してしまうだろう。
つまり、DV的な暴力の構造が、社会全体へといわば「拡散」され、殺伐とした暴力に覆われた日常が現実のものになると思うのである。
そうした日常は、他人を権力によって自在に操りたいと思う者たちにとっては、まさしく理想的な環境だろう。
「破壊」といえば、じつはどんな施設や制度の破壊・解体にもまさって、これほど効果的・決定的な破壊もないのではないか。


欲動のままに暴言を吐くことを習性のようにする権力者と、それにあえて批判を加えようとしないメディア、そしてその現状に異を唱えることを忘れた市民とによる連係プレーは、このように、力や立場の弱い人たちが常に危険にさらされ、同時に権力の最上部に居る者たちにとっては利益を得るのに最も好都合であるような社会を創り出す。
そんなディストピアは、すでにもう半分以上現実のものになりつつある。
その到来を押し留めるためには、不当な暴言や政策と、それを容認することを是とする今の社会の風潮に対して、ぼくらが全力で声をあげていくしかないのだ。


最後に念のため付け加える。
橋下氏や維新の「改革」(破壊)は、所詮新自由主義新保守主義(というよりも極右化)の本格的な到来を目論む権力者たちの狙うところを代行しているだけであり、その枠を決してはみ出すことはないだろう、というようなことをさっき書いた。
だがそのことは、だから橋下氏や維新の傍若無人をやり過ごして(そう出来るのなら)おけばよい、ということを意味するのではない。
第一、いわば特権層によって目論まれているこの破壊は、ぼくには取り返しのつかない根底的なものに思える。橋下氏や維新のようなその「尖兵」と戦わなければ、とても背後に控える本陣を撃ち、この破壊を阻止することは出来ないだろう。つまり、今ここで戦わなければどうしようもない。
そして、これまで書いてきたように、ぼくたちが圧政に対して「戦う」という習慣を身につけられるかどうかが、この局面において本当に賭けられているものの内実である。戦い始めることが出来れば、すでにぼくたちはその分だけ、何ものかをこの手にもぎとっている。