『トウ小平 政治的伝記』読了

とう小平 政治的伝記 (岩波現代文庫)

とう小平 政治的伝記 (岩波現代文庫)


承前。
http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20090923/p1


この長い伝記に寄せられた序文の冒頭で、政治学者のロス・テリルはトウ小平を、ポスト毛沢東の時代の中国における『非(ノン)毛沢東主義の巨人』と呼んでいる。
この言葉にあらわれているように、トウ小平については、毛沢東との対比、対立において語られ、考えられることが多いと思う。つまり、トウ小平とは毛沢東の政治の批判者、否定者であり、逆に毛沢東主義トウ小平以後の中国(資本主義化)が放棄した理想そのものである、といった見方だ。
だがこの本では、毛とトウ、両者を対立的にとらえるこうした見方は、否定されている印象を受ける。両者は不即不離の関係にあり、心理的にも、父親と従順な息子に似た、親密な関係がずっと続いたとされる。
ここに描かれるトウは、毛沢東の存命中は、もっぱら毛の理想にもとづく政策の、もっとも忠実で有能な実践者である。その関係は、もちろん戦前からつづくが、49年の中華人民共和国成立以後だけをとっても、トウが「西南の王」と呼ばれて生地でもある四川省に拠点を置いた時期に行ったチベットの併合から、3千万人以上の餓死者を出したといわれる「大躍進」政策の失敗、「反右派闘争」と呼ばれる50年代の権力闘争・粛清劇など、毛沢東時代の愚行・蛮行とも呼べる出来事は、ことごとく毛の意志を完璧にくみ取ったトウ小平によって実践されたものであった。
毛は、そのトウの忠実な仕事ぶりに深い信頼と情愛を寄せ、文革時にトウが「走資派」として批判の矢面に立ったときでさえ、最後まで復活への道を閉ざさずに残す「親心」を見せる。一方トウは、その精勤とずば抜けた政治的抜け目のなさにより、毛のもとで権力の中枢に着々とのし上がっていく。

毛沢東の独裁的権力がトウのみごとな昇進を可能にし、トウの急速な昇進が不幸にも毛沢東の帝国支配と、狂信的なユートピア路線を強化したのである。(p146 原文の「トウ」の字は漢字)


毛とトウ、二人を対立させ、あるいは切り離して見る見方は、何か大事なものを見落としていることに、読む者は気づかされるのである。


また、それに伴って、トウ小平を不屈の闘士、毛沢東主義との戦いをひそかに続けて最後にはもくろみ通り実権を握る、神秘的な智恵と力量を持つ一種の英雄のようにみなす視線も否定され、醜悪であったり愚かであったり、むしろ卑小な一人の人間としてのトウ小平像が描かれる。
その例はたとえば、文革によって家族と共に江西省下放された69年から72年までの間の出来事だ。解放軍の監視の下、二階建ての家に住んで午前中だけトラクター修理工場で働き、午後は家に戻って畑をいじったり散歩をしたりしていたというこの時期は、本書にもあるように穏和で理想的な時期のように語られてきたと思うが、ただ伝記によっては、この「午前中だけ」しか工場で働かなかった理由を、管理する側が工場での(トウの)オルグ活動を恐れたため、としているものもあるようだ。それは、この境遇にあっても、トウが政治的反攻への意欲を失わずにいたことをうかがわせるエピソードのひとつとして語られる。「不屈の男」トウ小平、というイメージだ。
だが、この本に描かれるトウ小平の姿は、自分が行ってきた行為を批判されたままに反省し、繰り返し毛沢東への謝罪と懇願の手紙を書き続ける、弱々しいものである。
そもそも文革でつるし上げにあった時期から、敢然と自分の正しさを主張した劉少奇とは違って、トウは自分の過ちを早々に認めている。かつて毛に失脚させられた彭徳懐のように意地を貫くようなところもなければ、周恩来のようにひるむことなく幾度も最高権力者の毛の非を諌めるということもなかった。
そこには、ただ「生き抜く」という意志だけはうかがえても、権力の座を奪回して自分が実権を握ろうという野望とか、何らかの理想のようなものは感じられない。


こうしたトウ小平の姿には、やはりよく言われる「プラグマティスト」という形容が、もっとも似つかわしいのかも知れない*1
この点では毛とはまったく正反対に、トウは理想とか理論とかいうものを、全く信じない人だった。毛もマルクス主義は信じていなかったかもしれないが、それとは意味が違う。トウは毛沢東主義も信じていなかったのだから。彼はただ、いつも与えられた状況のなかで最大の権力を握るために力を尽くしただけだ。
そこには、皇帝にも比せられる最高権力者である毛を批判したり、まして打倒しようとする意志などはない。
この一見不思議な態度は、坂口安吾歴史小説『二流の人』に描かれた、徳川家康を思い出させるところがある。あの家康も、信長や秀吉のために愚直なまでに尽くしただけで、自分が彼らを打ち倒して天下をとるなどという野望や理想は、頭に浮かぶことさえなかった。だがそれは裏面としては、「天下の下」での権力ゲームの頂点に立つということでもあり、結果として信長や秀吉の死後にはじめて、家康は「天下人」へと押し出されることになる。
この本に描かれるトウ小平のリアリスティックな生き方も、それにどこか似ている。





ところで、本書の著者ベンジャミン・ヤンは、毛とトウについて面白いことを言っている。

トウは改革開放政策を、毛沢東文化大革命に感じたように、非常に大切にしていた。改革開放政策に反対するとか、あいまいな態度をとることは許せなかった。(p283 原文の「トウ」の字は漢字)


つまり、毛にとっての文革と、トウにとっての改革開放政策は、同じものだというのである。なるほどそう考えれば、「毛の中国」と「トウの中国」は、見かけは正反対だが、一貫しているようにも思える。
トウの(経済の)改革開放政策には、まさしく毛を思わせるその強引な手法から批判も多い*2。また、中国の経済発展は社会主義(共産党支配)のもとでのみ可能だとの信念から、第二次天安門事件をはじめとする弾圧政治を行ったことも周知の事実である。
だが、トウの功績をとりわけ経済面において考えるとき、中国で生まれ育った著者の次のような言葉は、きわめて重い。

私が育った中国北方の農村では、農民は何世紀ものあいだトウモロコシ、高梁(コーリャン)などの雑穀やサツマイモを主食としてきた。小麦や米といった一級穀物は、祭日や特別なときに食べる贅沢品だった。八四年以降、小麦粉が主食になり、サツマイモはもう粉にせずに、そのままおいしく食べた。これは途方もなく大きい変化であり、すばらしいことだった。(p246)

中国の経済成長は本当にすばらしい。八九年の天安門事件後、経済的にも政治的にも後戻りをしなかった。それはほかでもない。トウの手柄だということをみなが認めるであろう。(p298 原文「トウ」は漢字)


トウ小平時代以前、毛沢東の中国は、それを中国一国だけの責任にするわけには到底いかないけれども、また社会主義毛沢東主義にのみその原因を求めることも出来ないだろうが、やはりとてつもない貧しさを人々に強要する社会だったと思う。
もちろん、そのことを中国の人々がどう受け止めたかは、別の問題である。当時の中国人の多くは(トウをはじめほとんどの政治家たちがそうだったように)、毛主席を心から敬愛していたのかも知れない。
毛の存在にも、その思想にも、はかりしれない魅力を、ぼくも感じる*3
だがそのことは、トウの時代がもたらした「豊かさ」の価値の真実性と、矛盾するものではないだろう。中国の人々にとって、毛沢東がもたらした独立と解放がかけがえのないものだったのと同じように、トウ小平の切り開いた繁栄と豊かさも、やはりかけがえのない精神的でもある価値なのではないかと思う。中国の人たち(民族によって区切ることは、必ずしも出来ないだろう)は、毛のもたらした「理想」も、トウがもたらした「繁栄」も、ともに受容し、ともに飲み込みながら、さらに進んでいこうとするのかもしれない。
そのエネルギーは、周辺に位置するものたちにとっては、さまざまな度合いの違いはあれ、脅威であらざるをえないが。







さて毛沢東は、生前、自分が生涯に行ったことは、国民党を台湾に追い出したことと、文化大革命をやったことの二つだけだ、と言っていたそうだ(p211)。
文革こそ、毛の理想、毛の政治の核心だったと考えてもいいだろう。
文革については、その永久革命的な意図が語られ、また今日に至る、民衆が直接的な集団行動によって国家や行政権力に圧力をかけて政治を動かすという中国の社会のあり方の端緒になったという評価もある。だがそれらを認めるにしても、そのもたらした損害はとてつもなく大きかったことも事実だろう。
何より問題なのは、毛の希望とは異なって、文革の主体は多くの貧しい農民ではなく、学生や都市の労働者などの知識階級だったということであり、それゆえにむしろ農民たちは文革を遂行する紅衛兵や労働者たちを憎悪したということだ。たとえば林彪は、この憎悪を扇動し利用して、農民たちに文革造反派の若者たちを襲撃させ、事態の掌握を図ったのである。*4


ぼくはその意味では、民衆自身が巨大な実力行使を行うという傾向(それは、数千年続く中国の伝統の復活とも思えるが)の端緒と呼べるものは、実は76年に起きた第一次天安門事件だったのではないかと思う。
本書によれば、四人組失脚の遠因ともなったこの事件の発端は、亡くなった周恩来を追悼して小学生の一団が人民英雄記念碑の石の台座に置いた、ピンクのバラの小さな花束だったという。
周恩来のことは、トウや毛に比して、この本でとりあげられることは少ないのだが、一箇所だけ、この第一次天安門事件に関するくだりのなかに、次のような印象的な文がある。

周恩来は西欧社会のマザー・テレサのような、中国人の美徳と正義の象徴だった。(p208)


トウ小平とは違って、臆することなく絶対的な権力者の毛に対して批判を繰り返した周の態度は、ヤンも書いているように、孔子を思わせるようなところがある。
毛沢東はぼくには、道家ないしは道教的なイメージの存在に思えるが、周恩来儒教文化のもっとも良い側面を象徴しているように思えるのだ*5
人々は、強大な権力者たちが主導するドラスティックな改革や、権力闘争に疲弊すると、ときとしてこうした存在を、自分たちの心情や主張の拠り所として求めるものなのではないだろうか。
だとするとこれもまた、中国の伝統の一面、いや人間の歴史と社会のひとつの要素なのかもしれない。
実際、あの毛ですら、最後まで周恩来という「良心の声」を排除することは出来なかったのである。


こうしてみると、トウ小平以降、現在の中国の大きな特徴は、「周恩来がいない」ということなのかもしれない。
「毛の中国」も「トウの中国」も、ある意味では一貫しているが、ただ今では、周恩来的な存在が欠如している。


周のような存在はもしかすると、革命や改革から、人々を遠ざける、良くない力かもしれないのだが、それはちょうど宇宙のなかに「弱い力」と呼ばれるものが存在するように、いつも人間の動きのなかに戻ってきて位置を占めてしまうものなのではないだろうか。


ところで周は、日本でもっとも好まれた中国の政治家だったと思うが、それは彼が体現していた儒教的な価値観がある時代の日本人には理解しやすかったからだろう。そこにその時代なりの、ひとつの希望はあったかも知れない。
しかし、日本という国は都合のいいときだけ文化的な共通性を持ち出す悪癖を持ってもいる。
いずれにせよ、現在では、周恩来のような象徴的な存在の到来を期待することは、もはや難しいように思える。それでもなお、われわれが「弱い力」を必要としてしまうなら、一人一人や、身近な人たちとの間の、小さな空間のなかで、その力を蓄えることからはじめていくしかないのだろう。
この力は、もしかすると良くないものかも、知れないのだが。




付記: なお、前回触れた、トウの長男が半身不随になった理由は、文革当時の迫害のなかで、窓から飛び降りて自殺を図ったことによるものだと、ヤンは書いていて、「紅衛兵に投げ落とされたため」だという通説を否定している。

*1:序文のなかでテリルは、トウは政治家のタイプとしては毛沢東より孫文に近い、と述べている。

*2:経済発展と生産力の増大を最重視し、その目的のために手段を選ばないトウの手法の特徴は、すでに大戦中の40年代前半から「奨勤罰惰」(模範労働者に現金と穀物を与え、生産しない人たちは放置して、その「報い」を受けるにまかせる)のスローガンのもとに彼が行なった政策に、明確に現れていた。

*3:本書から分かることで、ひとつ些細なことだが面白いと思うのは、周恩来やトウと違って若い時にフランス留学を経験していない毛は、当時在仏の中国人学生の間であった、コミュニストアナキストの論争・対立を経験していない、ということである。

*4:加々美光行『歴史のなかの中国文化大革命』。http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20080912/p1

*5:論語』(講談社学術文庫)のなかで、著者の金谷治は面白い話を書いていた。文革の後期に叫ばれた「批林批孔」とは、林彪批判と孔子儒教批判を重ねるスローガンだが、この奇妙な取り合わせの真意は、孔子周王朝ゆかりの魯の国の人だったことから、「周」つまり周恩来への批判のメッセージを暗に含んでいたという説を、中国で聞いたというのだ。その当否は分からないが、孔子儒教への批判が周恩来の存在の排除という(政治的・集団的な?)欲望を含意するというのは、興味深い話である。