『空気人形』

業田良家原作、是枝裕和監督、ぺ・ドゥナ主演。




非常に綿密に作られている映画で、とくにカメラワークが素晴らしいと思った。
「空気人形」というのは変わった題だと思ったが、ここに出てくる商品のことを、今ではこう呼ぶのか。男性の「性欲処理のための人形」(映画のなかでぺ・ドゥナが独白する台詞)のことである。
その人形が「心」を持って人間のように生きはじめる、という物語だが、ぺ・ドゥナの演技が素晴らしく、どこまでが人形でどこから彼女が演じているのか、よく分からないほどだった。
日本の女優でこの役をやれそうな人は、ちょっと思い浮かばない。
リンダリンダリンダ』のときは、ほとんど日本語を喋らなかった彼女が、本作では人形が少しずつ「言葉」を習得していく様子を、見事に表現している。
そして、この「言葉」が、物語の重要な要素になっているという見方ができる。


(以下、徹底的なネタバレ)



突然に「心」を持つようになり、持ち主の中年男(板尾創路)にはそれを秘密にして、男が仕事で外出する昼の間だけ町に出た彼女は、折々の風景を眺めたり、季節の空気のなかを楽しそうに歩き回る。そして、町に暮らすさまざまな人たちと出会って言葉を交わし、とうとうレンタルビデオ屋でバイトを始め(笑)、若いその店員(ARATA)と恋に落ちる。


一人暮らしの老人(高橋昌也)との会話の中で、彼女が「私の内は空っぽなの」と(人形である)体のことを言うと、老人は、「(心が)空っぽの人は、こんな町には大勢居る」と答える。
彼女は、ここで町の中に自分と同じく人形から人間になった人が大勢居るのだと勘違いしたのだと思う。彼女は、「比喩」が理解できないのだ。
このことが、後々の悲劇につながっていく。


ある日、バイト先の店で事故に遭い、破れたビニールの腕から空気が漏れていく姿を、店員(ARATA)に見られてしまう。とっさの判断で店員はセロテープで「傷口」をふさぎ、体に息を吹き込んで「蘇生」させる(この場面はたいへん印象的である)のだが、人形であることが知られてしまう。
そんな彼女に向って、店員は、(心が空虚だという意味で)「自分も同じような存在だ」という意味のことを言う。
ここでも、彼女はその言葉をストレートに受け取り、この店員も自分と同じ「体」を持つ人形(の一人)なのだと、思い込んでしまうのだ。


さらにいくつかのことが重なる。
「心」を持ち始めた彼女は、持ち主の中年男に夜毎に抱かれたりキスされたりすることをたまらなく苦痛に感じるようになる。
またあるとき、バイト先の店主(岩松了)は、あることで彼女を脅し、犯してしまう。
いずれも、心の空虚のはけ口として、(人形として、もしくは人間としての)彼女の「体」を利用(使用)するのだ。


やがて、彼女に飽きたのか、新しい人形を購入してベッドに持ち込むようになった中年男の前に、ある夜彼女は突然「心」を持った姿をあらわにして立ち、「なぜ私を選んだのか」と問い詰める。彼女は、人形という「物」としてでなく、心を持った存在として男と関わりたいと、求めているかのようである。
だが驚愕し、見つめられて動揺した男は、元の人形に戻ってくれと頼み、「めんどくさい事が嫌だから、(人間を避けて)人形を相手にするようになったのに・・」と本音を口にする。男には、相手を「物」として以外は愛することが出来ないのだ。
彼女は、ついに男の家を飛び出す。


恋仲になった店員のもとに行くことを決意した彼女は、その前に、自分を作ってくれた人形師(オダギリジョー)のもとを訪れる。
ここでも、彼女を混乱させる言葉が発せられる。
廃棄処分になる人形たちが「燃えないゴミ」として捨てられることを、人形師は言いにくそうに打ち明けるが、続けて、「でもぼくたち人間も、同じようなものさ。死ねば燃えるゴミになるだけだから」というようなことを言う。
去り際に、彼女は「この世に生んでくれてありがとう」と人形師に言い、「君が見た世界は哀しいものだけだった?それとも、少しでも美しいものが見れたかい」と尋ねられると、静かにうなづく。


二人になると店員は、頼みたいことがあると彼女に告げる。
それは、彼女の空気を抜かせてほしいということだった。彼女は戸惑うが、「大丈夫、すぐにまたぼくが空気を吹き込んであげるから」という彼の真剣な願いを聞いて、受け入れる。
ベッドの上で裸になった二人。男は彼女の空気を抜き、そして自分の口で空気を吹き込み、また空気を抜き、という行為を繰り返す。
それは、愛の交歓のようにも見えるが、相手に何かを行っているのは男の方だけであり、彼女はただ彼の欲望(彼女の体と自分の内面の「空虚」を満たすこと?)をみたしてやるために、されるままになっているだけである。


悲劇は、この直後に起きる。
彼女は、眠り込んでいる男の腹にナイフで切り口を入れる。同じ人形の体を持っていると思い込んでいるからだ。そして、血があふれ出した傷口にセロテープを貼り付け、さらに溢れ続ける鮮血にまみれながら、遊び(交歓)の続きのつもりで彼の口に自分の唇をつけて、息を吹き込み懸命に膨らませようとする。
この映画のクライマックスだ。


もちろん、男は蘇生することなく死んでしまう。
彼女は、その死体をゴミ袋に入れ、ゴミ捨て場に置く。
そして、愛するものを失った自分もまた、町のゴミ捨て場に体を横たえて、死んでいく。





作中でヒロインが朗読する吉野弘の詩『生命は』が、この映画の重要なモチーフになっているようだ。
インターネットに全編が上がっていたので、引かせてもらおう。

http://members.jcom.home.ne.jp/nyan-mi/inochi_ha.html



ぼくはこの詩も、この映画も、十分に理解したとは言いがたい。
ラストまで見て、納得のいかない不満な感じの残る部分もある。
だが、言えそうなことだけを書こう。


もし「言葉」(といっても、ここでは特に「日本語」なのだが)が人間の世界の仕組みだとすると、この人間の世界の仕組みが、彼女を言わば排除し、死なせたことになる。この仕組みは、彼女を受け入れなかったのである。
それがひとつ。
もうひとつは、彼女は自分のことを「なかが空っぽ」と言ったが、心は空っぽではなかった。だが周囲の人間たちの多くは(おそらく店員を含めて)、みな心に空洞を抱えていて、そのため相手を「物」のようにしか愛せないのだった。彼女を排除したり傷つけたりして、死に追いやったのは、この空洞をもつ人間たち、あるいはそんな哀しい人間たちを生み出している人間の世界だ、ということでもある。
それでも、この映画のラストは、そんな人間の世界を、彼女の死を通じてどこかしら肯定しているような感じがある。
だがそれでは、彼女はあまりに不幸ではないか。まるで人間たちの世界が肯定されるためにだけ(人間が自分たちの世界を肯定するためにだけ)、彼女はわれわれの世界に「心」を持って産まれてきたみたいではないか、と思ったのだった。